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「武郷県」の版間の差分

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[[泰始 (晋)|泰始]]年間、[[西晋]]は[[涅県]]より分割設置された'''武郷県'''を前身とする。[[433年]]([[延和 (北魏)|延和]]2年)、[[北魏]]により'''郷県'''と改称された。当時の管轄範囲は現在の[[楡社県]]及び武郷県の中東部であり、県治は現在の楡社県社城鎮に設置され、[[并州]][[上党郡]]の管轄とされた。


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[[617年]]([[義寧]]元年)、[[隋|隋朝]]は郷県より楡社県を分割、ほぼ現在の管轄範囲が確定している。[[唐|唐代]]には[[河東道]][[韓州]]に移管、[[643年]]([[貞観 (唐)|貞観]]17年)により[[潞州]]の管轄となる。[[710年]]([[景雲 (唐)|景雲]]元年)、'''武郷県'''と改称された。[[五代十国時代]]には[[北漢]]の版図とされた。[[宋 (王朝)|宋朝]]が成立すると武郷県は河東路潞州の管轄とされたが、[[978年]]([[太平興国]]3年)には[[威勝郡]]に移管された。[[金 (王朝)|金代]]になると[[1128年]]([[天会 (金)|天会]]6年)、威勝郡は[[沁州]]と改称、[[元 (王朝)|元代]]には[[中書省]][[晋寧路]]沁州の管轄とされた。その後[[明|明代]]では[[山西布政司]][[冀南道]]沁州、[[清|清代]]では[[山西省]][[冀寧道]]の管轄とされた。


中華民国が成立すると[[1913年]]([[中華民国暦|民国]]2年)に[[山西省 (中華民国)|山西省]]直轄とされたが、[[北京政府]]時代には冀寧道の管轄とされたが、[[1930年]](民国19年)の道制廃止に伴い山西省直轄とされた。
中華民国が成立すると[[1913年]]([[中華民国暦|民国]]2年)に[[山西省 (中華民国)|山西省]]直轄とされたが、[[北京政府]]時代には冀寧道の管轄とされたが、[[1930年]](民国19年)の道制廃止に伴い山西省直轄とされた。

2020年9月3日 (木) 11:10時点における版

中華人民共和国 山西省 武郷県
武郷県の位置
武郷県の位置
武郷県の位置
簡体字 武乡
繁体字 武鄉
拼音 Wǔxiāng
カタカナ転写 ウーシャン
国家 中華人民共和国の旗 中華人民共和国
山西
地級市 長治市
行政級別
建置 西晋
面積
総面積 1,116 km²
人口
総人口(2004) 16 万人
経済
電話番号 0355
郵便番号 046300
行政区画代碼 140429
公式ウェブサイト http://www.zgwx.gov.cn/

武郷県(ぶきょう-けん)は中華人民共和国山西省長治市に位置する

歴史

泰始年間、西晋涅県より分割設置された武郷県を前身とする。433年延和2年)、北魏により郷県と改称された。当時の管轄範囲は現在の楡社県及び武郷県の中東部であり、県治は現在の楡社県社城鎮に設置され、并州上党郡の管轄とされた。

617年義寧元年)、隋朝は郷県より楡社県を分割、ほぼ現在の管轄範囲が確定している。唐代には河東道韓州に移管、643年貞観17年)により潞州の管轄となる。710年景雲元年)、武郷県と改称された。五代十国時代には北漢の版図とされた。宋朝が成立すると武郷県は河東路潞州の管轄とされたが、978年太平興国3年)には威勝郡に移管された。金代になると1128年天会6年)、威勝郡は沁州と改称、元代には中書省晋寧路沁州の管轄とされた。その後明代では山西布政司冀南道沁州、清代では山西省冀寧道の管轄とされた。

中華民国が成立すると1913年民国2年)に山西省直轄とされたが、北京政府時代には冀寧道の管轄とされたが、1930年(民国19年)の道制廃止に伴い山西省直轄とされた。

日中戦争中は中国共産党により抗日拠点が設置され1939年(民国28年)には太行抗日根据地第三専区が設置された。1940年6月には武郷県は武東県及び武西県に分割され冀南太行聯合弁事処三専署(翌年晋冀魯豫辺区太行三専区に改編)の管轄とされた。1945年(民国34年)9月、武東、武西両県が統合され武郷県が設置、1949年10月に中華人民共和国が成立すると長治専区(1958年に晋東南専区に改編)の管轄とされた。1958年11月、楡林県が統合されたが、翌年7月に再分割されている。1985年、晋東南地区(1968年に専区より改称)の廃止及び地級市として長治市の設置にともない、武郷県も長治市に移管され現在に至っている。

行政区画

  • 鎮:豊州鎮、洪水鎮、蟠竜鎮、監漳鎮、故城鎮
  • 郷:墨鐙郷、韓北郷、大有郷、賈豁郷、故県郷、上司郷、石北郷、湧泉郷、分水嶺郷

観光

  • 八路軍文化園(国家AAAA級景区、全国八路軍文化体験式教育基地、及び全国愛国主義教育基地に指定されている)
中国地名の変遷
建置 西晋
使用状況 武郷県
西晋武郷県
東晋十六国武郷県
南北朝郷県
郷県
郷県
武郷県
五代武郷県
北宋/武郷県
南宋/武郷県
武郷県
武郷県
武郷県
中華民国武郷県
現代武郷県