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'''李 元懿'''(り げんい、生年不詳 - [[673年]])は、[[中国]]の[[唐]]の高祖[[李淵]]の十三男。母は張宝林。
'''李 元懿'''(り げんい、生年不詳 - [[673年]])は、[[中国]]の[[唐]]の高祖[[李淵]]の十三男。母は張宝林。


[[621年]]、滕王に封ぜられた。[[633年]]、[[兗州]][[刺史]]に任ぜられ、実封六百戸を受けた。[[636年]]、鄭王に改封された。[[鄭州]]と[[ロ州|潞州]]の刺史を歴任した。[[649年]]、実封千戸まで加増された。[[総章]]年間に[[絳州]]刺史となった。何度か大きな疑獄を裁き、処置は公平で適切だったので、[[高宗 (唐)|高宗]]から褒賞を賜られた。[[673年]]に世を去ると、[[司徒]]・[[荊州]]大都督の位を追贈され、[[献陵]]に陪葬された。[[諡]]を恵といった。
[[621年]]、滕王に封ぜられた。[[633年]]、[[兗州]][[刺史]]に任ぜられ、実封六百戸を受けた。[[636年]]、鄭王に改封された。[[鄭州]]と[[潞州]]の刺史を歴任した。[[649年]]、実封千戸まで加増された。[[総章]]年間に[[絳州]]刺史となった。何度か大きな疑獄を裁き、処置は公平で適切だったので、[[高宗 (唐)|高宗]]から褒賞を賜られた。[[673年]]に世を去ると、[[司徒]]・[[荊州]]大都督の位を追贈され、[[献陵]]に陪葬された。[[諡]]を恵といった。


10子があり、長子の李璥が鄭王を継いで、[[鄂州]]刺史となった。
10子があり、長子の李璥が鄭王を継いで、[[鄂州]]刺史となった。

2020年9月3日 (木) 11:10時点における版

李 元懿(り げんい、生年不詳 - 673年)は、中国の高祖李淵の十三男。母は張宝林。

621年、滕王に封ぜられた。633年兗州刺史に任ぜられ、実封六百戸を受けた。636年、鄭王に改封された。鄭州潞州の刺史を歴任した。649年、実封千戸まで加増された。総章年間に絳州刺史となった。何度か大きな疑獄を裁き、処置は公平で適切だったので、高宗から褒賞を賜られた。673年に世を去ると、司徒荊州大都督の位を追贈され、献陵に陪葬された。を恵といった。

10子があり、長子の李璥が鄭王を継いで、鄂州刺史となった。

伝記資料

  • 旧唐書』巻64 列伝第14「鄭王元懿伝」
  • 新唐書』巻79 列伝第4「鄭王元懿伝」