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「コレッジョ」の版間の差分

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[[ファイル:Correggio 044.jpg|thumb|200px|『聖ヒエロニムスいる聖母』 1527-28 パルマ国立美術館蔵]]
[[File:Monumento, Antonio Allegri, Correggio, Parma.jpg|thumb|210px|コレッジョ記念碑。パルマ]]
'''アントニオ・アッレグリ・ダ・コレッジョ'''({{lang-it-short|Antonio Allegri da Correggio}}, [[1489年]]頃–[[1534年]])は、[[イタリア]]、[[盛期ルネサンス]]を代表する[[画家]]。主に宗教画を描いたが、晩年の神話画によって特に有名である。長命ではなかったが[[パルマ]]の芸術文化において革新的かつ中心的な役割を果たし、後世に多大な影響を与えた。
[[ファイル:Correggio 008.jpg|thumb|200px|『ダナエ』 1530頃 ボルゲーゼ美術館(ローマ)蔵]]


コレッジョは当時の芸術の潮流から離れたパルマの地において、15世紀の[[人文主義]]と[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]、[[ラファエロ・サンツィオ]]、[[ミケランジェロ・ブオナローティ]]などの芸術に触発され、それ以外にも様々な影響を受けながら16世紀を代表する画家へと成長していった。中でもダ・ヴィンチに由来する自然描写と[[スフマート]]に熟達し、崇高とも評される光の明暗、人物を柔らかく表情豊かに描いた絵画は親しみ深い詩的情緒にあふれているだけでなく、[[パルマ大聖堂]][[天井画]]に見られる流動的かつイリュージョニスティックな空間表現によって、約100年後の[[バロック]]の先駆的存在と見なされている。こうしたコレッジョの芸術性の評価は17世紀以降次第に進められ、18世紀に最高潮に達し、とりわけ[[アントン・ラファエル・メングス]]はコレッジョをラファエロ、[[ティツィアーノ]]と比較し、ラファエロに次ぐ第2の位置にコレッジョを置くほどであった<ref>高梨光正「明暗において崇高な」(『PARMA』p.43)。</ref>。
'''アントニオ・アッレグリ・ダ・コレッジョ'''({{it|Antonio Allegri da Correggio}}, [[1489年]]頃–[[1534年]])は、[[ルネサンス]]期の[[イタリア]]の[[画家]]。

[[ジョルジョ・ヴァザーリ]]はコレッジョが[[ローマ]]を訪れていたら、もっと偉大な芸術家になったことは疑いないと考えたが、1518年頃から1520年頃を画期とし、それ以前と以降のコレッジョに大きな変化が見られるため、現在ではそれ以前にローマを訪れて当時の最新の芸術を吸収したことが定説と化している。しかし具体的な史料を欠いているため、それがどのようにして行われたのかは今もって謎に包まれており、実際にローマを訪れたのかどうかも含めてヴァザーリ以来論争が続いている。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
コレッジョは北イタリアの[[モデナ]]の近くの[[コッレッジョ|コレッジョ]]で生まれ、同地で没した。本名はアントニオ・アッレグリで、布地職人の父ペレグリーノ・デ・アレグリスと母ベルナルディーナ・オルマーニとの間に生まれた<ref name="LFS4">ルチーア・フォルナーリ・スキアンキ、p.4。</ref>。コレッジョの生年ははっきりしない。40歳頃(没年1534年)に死去したというヴァザーリの記述から1494年頃と考えられていたが、現在では1489年頃と見なすことが通説となっている。これは1514年8月30日の日付を持つ『聖フランチェスコの祭壇画』の委託書が根拠となっている。当時、25歳未満の若者が仕事を引き受ける際には父親の承諾ないし判事の認可が必要だったが、この文書にはそれが見られないため、このときには25歳を越えていたと推測されている<ref name="LFS4" />。活動時期は大きく初期(1500年代初頭-1518年)、 芸術が成熟を迎える中期(1518年-1530年)、 晩年から死までの後期(1530年-1534年)の3つに分けられる。しかし同時代の他の偉大な芸術家たちに比べてコレッジョの生涯について残されている史料が少なく、特に修業時代から初期の経歴について不明な点が多い。よってコレッジョの芸術の発展は彼の絵画言語から再構成しなければならないという困難さがあり、そこから窺えるコレッジョが受けた諸影響は複雑でしばしば錯綜している。修業時代は伯父[[ロレンツォ・アッレグリ (画家)|ロレンツォ・アッレグリ]]やアントニオ・バルトロッティ(Antonio Bartolotti)のもとで学んだ後、1503年頃に[[モデナ]]の画家[[フランチェスコ・ビアンキ・フェッラーリ]]に師事したとされるが<ref name="B32">『ブリタニカ国際大百科辞典』8巻「コッレッジョ」p.32。</ref>、[[アンドレア・マンテーニャ]]や[[ロレンツォ・コスタ]]の影響が顕著であり、さらに[[フランチェスコ・フランチャ]]、ラファエロ・サンツィオ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ・ブオナローティ、[[ジョルジョーネ]]、[[ロレンツォ・ロット]]、[[ドッソ・ドッシ]]らの影響も指摘されている<ref name="LFS4" />。
北イタリアの[[モデナ]]の近くの[[コッレッジョ|コレッジョ]]で生まれ、同地で没した<ref>コレッジョの生年は、40歳頃(没年1534年)に死んだというヴァザーリの記述から逆算して1494年頃と考えられてきた。現在では1489年頃が通説となっている。</ref>。[[パルマ]]を中心に活躍した画家である。本名はアントニオ・アッレグリで、生地の町の名にちなんでコレッジョと呼ばれる。修業期の経歴については不明な点が多い。[[1506年]]頃[[マントヴァ]]に移り、同地に重要な作品を残す画家[[マンテーニャ]]の厳格な画風の影響を受けた。コレッジョは[[1519年]]頃には[[パルマ]]に移り、同地のサン・パオロ尼僧院の天井画、サン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ聖堂の天井画などを手がけている。後者の天井画における効果的な短縮法(遠近法の技法の一種)の使用や、天井に開いた穴から本物の空を見上げているような錯視効果をねらった表現は、マンテーニャの影響によるものであろう。


===初期===
パルマのサンタントニオ聖堂の[[アルターピース|祭壇画]]として描かれた『聖ヒエロニムスのいる聖母』(1527年–[[1528年]])は、[[聖母マリア|聖母]]、幼児[[イエス・キリスト|キリスト]]、[[マグダラのマリア]]、[[天使]]らの甘美な表情のなかに宗教的崇高さをも表現した代表作である。[[スフマート]](輪郭線を煙がかかったように柔らかく表現する技法)を生かした作風には[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]の影響が見て取れる。この作品は「イル・ジョルノ(昼)」と通称され、「ラ・ノッテ(夜)」の通称をもつ『キリストの降誕』(1529年–1530年頃)と対で紹介されることが多い。
[[File:Correggio 007.jpg|thumb|220px|left|『聖エリザベトと幼い洗礼者ヨハネ』[[ミラノ]]、[[ブレラ絵画館]]所蔵。]]
コレッジョは[[1506年]]頃[[マントヴァ]]に移り、同地に重要な作品を残す画家マンテーニャの厳格な画風の影響を受けた。マンテーニャはこの年に死去しており、ロレンツォ・コスタが宮廷画家の地位にあった。言い伝えによるとコレッジョは{{仮リンク|サンタンドレア大聖堂 (マントヴァ)|en|Basilica of Sant'Andrea, Mantua|label=サンタンドレア大聖堂}}のマンテーニャ埋葬礼拝堂の装飾を完成させたとされ<ref name="B32" />、近年の研究は礼拝堂天井のペンナッキに20歳に満たないコレッジョの筆を認めている<ref name="LFS4" /><ref name="LFS6">ルチーア・フォルナーリ・スキアンキ、p.6。</ref>。


{{multiple image
このように、コレッジョの作品には複数の様式の影響が見られる。[[1530年]]、妻に先立たれたコレッジョは故郷に帰り、1534年、40歳代半ばで没している。この時期の注目すべき作品群としては、マントヴァの[[ゴンザーガ家]]の[[フェデリーコ2世・ゴンザーガ|フェデリーコ2世]]の注文による『神々の愛』の連作(1530年–1531年頃)がある。連作の中でも「ダナエ」や「イオ」に見られるエロティシズムには、次世代の[[バロック絵画]]につながるものが感じられる。
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| image1 = Mantegna, madonna della vittoria.jpg
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| caption1 = マンテーニャ『勝利の聖母』
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| caption2 = コレッジョ『聖フランチェスコの聖母』
}}
コレッジョの最初期の重要な作品はその5年後に描かれた。[[ミラノ]]、[[ブレラ美術館]]の『キリストの誕生に立ち会う聖エリザベスと聖ヨハネ』({{it|Natività con i santi Elisabetta e Giovannino}}, 1513年-1514年頃)や[[ドレスデン]]、[[アルテ・マイスター絵画館]]の『聖フランチェスコの聖母』({{it|Madonna di San Francesco}}, 1514年-1515年頃)といった作品はいずれもマンテーニャの影響が見て取れ、特に後者は[[ルーブル美術館]]の『勝利の聖母』を正確に模倣している。しかしこの作品は同時にダ・ヴィンチやラファエロ、ロレンツォ・コスタの影響も見て取れる<ref name="LFS8">ルチーア・フォルナーリ・スキアンキ、p.8。</ref>。マンテーニャの影響はこれ以降もしばしば見出されるが、それ以上にダ・ヴィンチに対して深い関心を抱いていたことはコレッジョの絵画から明らかであり、線によって形態を把握するマンテーニャの厳格な芸術から急速に脱却し、スフマートによって輪郭をぼかす柔らかな絵画表現と甘美な色彩を手に入れていく<ref name="B32" />。


1516年以降のコレッジョは小品ながらもレオナルド的なうつむくように頭部を傾けながら微笑を浮かべた[[聖母子]]像を多く描くようになる<ref>ルチーア・フォルナーリ・スキアンキ「パルマのルネサンスとマニエリズモ」(『PARMA』p.21)。</ref>。1516年頃の作品とされる[[マドリード]]の[[プラド美術館]]の『聖母子と幼い聖ヨハネ』({{it|Madonna col Bambino e san Giovannino}})や、1514年から1517年頃のものとされる[[ミラノ]]、[[スフォルツァ城美術館]]の『聖母子と幼い聖ヨハネ』はいずれもダ・ヴィンチの影響を示しており、前者の洞窟のような暗い空間の中に座る聖母の姿はレオナルド・ダ・ヴィンチの『[[岩窟の聖母]]』を<ref name="LFS8" />、後者の聖ヨハネのポーズは『[[糸車の聖母]]』を思い出させる<ref name="LFS12">ルチーア・フォルナーリ・スキアンキ、p.12。</ref>。1517年から1520年頃の[[ウフィツィ美術館]]の『聖フランチェスコのいるエジプトへの逃避途上の休息』({{it|Riposo in Egitto con san Francesco}})や、モデナの{{仮リンク|エステ美術館|en|Galleria Estense}}の『カンポリの聖母』({{it|Madonna Campori}})ではレオナルドの様式が洗練されているだけでなく色彩が甘美さを増してくる。この頃の重要な作品として[[ブレラ絵画館]]の『東方の三博士の礼拝』や[[国立カポディモンテ美術館]]の『聖カタリナの神秘の結婚』があり、[[プラド美術館]]の『ノリ・メ・タンゲレ』({{la|Noli me tangere}})や[[エルミタージュ美術館]]の『貴婦人の肖像』になるとコレッジョの芸術が成熟期を迎える一歩手前に位置付けられている。
== 代表作 ==
* [[聖母]]と聖ヨハネ ''Madonna col Bambino e San Giovannino'' (1512–14) – [[スフォルツァ城]]、[[ミラノ]]
* [[東方三博士]]の礼拝 ''The Adoration of the Magi'' (1516-18)- 84×108 cm、[[ブレラ美術館]]、[[ミラノ]]
* この人を見よ ''Ecce Homo''(1525-30頃) - 99.7×80 cm、[[ナショナル・ギャラリー (ロンドン)|ナショナル・ギャラリー]]、[[ロンドン]]
* 聖カタリナの神秘の結婚 ''The Mystic Marriage of St. Catherine'' (1510–15) - [[ナショナル・ギャラリー (ワシントン)|ナショナル・ギャラリー]]、[[ワシントンD.C.]]
* 聖フランシスコの聖母 ''Die Madonna des heiligen Franziskus'' (1514-15頃) - 299×245 cm、[[ドレスデン美術館|ドレスデン国立絵画館]]
* Salvator Mundi (1515頃) - 42.6×33.3 cm、[[ナショナル・ギャラリー (ワシントン)|ナショナル・ギャラリー]]、[[ワシントンD.C.]]
* 聖母子と幼児聖ヨハネ ''Virgin and Child with the Young Saint John the Baptist'' (1515頃) - 64×50 cm、[[シカゴ美術館]]
* 聖母と[[聖フランシス]] ''Madonna with St. Francis'' (1514) - 299×245 cm、[[アルテ・マイスター絵画館]]
* 四聖人 ''Saints Peter, Martha, Mary Magdalen, and Leonard'' (1515-17頃) - 221.6×161.9 cm、[[メトロポリタン美術館]]、ニューヨーク
* 授乳の聖母 ''Virgin and Child with an Angel (Madonna del Latte)'' (1525頃) - 68×56 cm、[[ブダペスト国立西洋美術館|ブダペスト国立美術館]]
* [[聖母子]]と幼児聖ヨハネ ''Madonna and Child with the Young Saint John'' (1516) - 48×37 cm、[[プラド美術館]]、マドリッド
* 聖母子とマグダラのマリア、聖ルチア(通称アルビネーアの聖母) ''Madonna fra le sante Maria Maddalena e Lucia,detta Madonna di Albinea'' (1557頃,原作1517-19頃) - 162×154 cm、[[パルマ国立美術館]]
* 聖母に告別するイエス ''Christ taking Leave of his Mother'' (1517-18頃) - 87×77 cm、ナショナル・ギャラリー、ロンドン
* エジプトへの逃避途上の休息、聖フランチェスコ ''The Rest on the Flight to Egypt with Saint Francis'' (1517) - 123.5×106.5 cm、[[ウフィツィ美術館]]、フィレンツェ
* オリーブ山のキリスト ''The Agony in the Garden'' (1522-24頃) - 40×42.2cm、アプスリー・ハウス、ロンドン
* 階段の聖母 ''Madonna della scala'' (1522-24頃) - 146×142 cm、パルマ国立美術館
* [[籠の聖母 (コレッジョ)|籠の聖母]] ''The Madonna of the Basket'' (1524頃) - 33.7×25.1 cm、ナショナル・ギャラリー、ロンドン
* 聖セバスティアヌスの聖母 ''Die Madonna des heiligen Sebastian'' (1524頃) - 265×151 cm、ドレスデン絵画館
* ある淑女の肖像 ''Portrait of a Gentlewoman'' (1517–19) - 103×87.5 cm、[[エルミタージュ美術館]]、サンクトペテルブルク
* 幼児[[イエス・キリスト|イエス]]を礼拝する聖母 ''Adoration of the Child'' (1518–20) - 81×67 cm、ウフィツィ美術館、フィレンツェ
* 聖ヒエロニムスのいる聖母 ''Madonna of St. Jerome'' (c. 1522) - 105.7×141 cm、パルマ国立美術館
* スープ皿の聖母 ''Madonna della Scala'' (c. 1523) - 196×141,8 cm、パルマ国立美術館
* キリスト哀悼 ''Compianto su Cristo marto'' (1524-26頃) - 157×182 cm、パルマ国立美術館
* 四聖人の殉教 ''Martirio di quattro Santi'' (1524-26頃) - 160×185 cm、パルマ国立美術館
* 十字架降下 ''Deposition from the Cross'' (1525) - 158.5×184.3 cm、パルマ国立美術館
* ノリ・メ・タンゲレ(我に触れるな)''Noli me Tangere'' (c. 1525) - Oil canvas, 130×103 cm、プラド美術館、マドリッド
* [[聖カタリナの神秘の結婚と聖セバスティアヌス]] ''Mystic Marriage of Saint Catherine of Alexandria with Saint Sebastian'' (c. 1525-26頃) - 105×102 cm、[[ルーヴル美術館]]、パリ
* 聖母被昇天 ''Assumption of the Virgin'' (1526–1530) —1093×1195 cm、[[パルマ大聖堂 (イタリア)|パルマ大聖堂]]
* 羊飼いの礼拝 ''Nativity (Adoration of the Shepherds, or Holy Night'' (1528–30) - 256.5×188 cm、ドレスデン美術館
* [[キューピッドの教育]] ''The Education of Cupid'' (c. 1528) - 155×91 cm.、ナショナル・ギャラリー、ロンドン
* [[眠れるヴィーナスとキューピッド、サテュロス]] ''Venus and Cupid with a Satyr'' (c. 1528) - 188×125 cm、ルーヴル美術館、パリ
* [[聖ゲオルギウス]]の聖母 ''Madonna with St. George'' (1530–32) - 285×190 cm、アルテ・マイスター絵画館
* [[ガニュメデスの略奪 (コレッジョ)|ガニュメデスの略奪]] ''Ganymede abducted by the Eagle'' (1531–32) - 163.5×70,5 cm、[[美術史美術館]]、ウィーン
* [[ユピテルとイオ (コレッジョ)|ユピテルとイオ]] ''Jupiter and Io'' (1531–32) - 164×71 cm、美術史美術館、ウィーン
* [[レダと白鳥]] ''Leda with the Swan'' (1531–32) - 152×191 cm、[[ベルリン国立美術館]]
* [[ダナエ (コレッジョの絵画)|ダナエ]] ''Danaë'' (c. 1531) - 161×193 cm、[[ボルゲーゼ美術館]]、ローマ
* 美徳のアレゴリー ''Allegory of Virtue'' (c. 1532–1534) - 149×88 cm、ルーヴル美術館、パリ
* 悪徳のアレゴリー ''Allegoria del Vizio'' (1532-34頃) - 148×88 cm、ルーヴル美術館、パリ


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== 日本語文献 ==
Correggio, madonna campori.jpg|{{small|『カンポリの聖母』1517年-1518年頃 エステ美術館所蔵}}
*『コレッジョ バロックの誕生』 ルチア・フォルナーリ 、[[森田義之]]訳
Correggio - The Rest on the Flight to Egypt with Saint Francis - WGA05355.jpg|thumb|180px|{{small|『聖フランチェスコのいるエジプトへの逃避途上の休息』1517年頃 ウフィツィ美術館所蔵}}
:〈イタリア・ルネサンスの巨匠たち28〉[[東京書籍]]、1995年 
Correggio, Ritratto di dama, c.1517-1518.jpg|thumb|180px|{{small|『貴婦人の肖像』 1517年-1518年頃 エルミタージュ美術館所蔵}}
*『コレッジョ』ファブリ世界名画集77、[[森洋子 (美術史家)|森洋子]]、[[平凡社]]、1972年
Correggio Noli Me Tangere.jpg|{{small|『ノリ・メ・タンゲレ』1518年-1524年頃 プラド美術館所蔵}}
*『世界美術大全集 西洋編第13巻 イタリア・ルネサンス3』[[佐々木英也]]、[[森田義之]]責任編集、[[小学館]]、1994年
</gallery>
*『パルマ―イタリア美術、もう一つの都』[[国立西洋美術館]]、2007年5月29日~2007年8月26日

*『[[ヴァザーリ]] 続ルネサンス画人伝』[[平川祐弘]]、仙北谷茅戸、小谷年司 訳、[[白水社]]、1995年
===成熟期===
; サン・パオロ女子修道院装飾壁画
[[File:Correggio, Camera di San Paolo, Parma 01.jpg|thumb|160px|left|サン・パオロ修道院天井壁画。]]
[[1519年]]頃には[[パルマ]]に移り、同地の[[ベネディクト会]]{{仮リンク|サン・パオロ女子修道院 (パルマ)|en|San Paolo, Parma|label=サン・パウロ修道院}}の天井画を手掛けた。この仕事はベルゴンツィ家出身の修道院長{{仮リンク|ジョヴァンナ・ダ・ピアツェンツァ|it|Giovanna Piacenza}}の委託による。教養豊かな修道院長は1514年に大食堂と第一室の装飾を{{仮リンク|アレッサンドロ・アラルディ|en|Alessandro Araldi}}に依頼した後、1519年に彼女の私的な居間(カメラ)の装飾をコレッジョに委託した。この仕事におけるコレッジョの壁面装飾は独創的である。天井を大きなドーム状の蔓棚に見立て、それを支える添え木によって16の区画に分割し、その1つ1つに天井から垂れ下がる薔薇色のリボンと植物の房飾り、祝祭的な戯れる2人1組のプットーと、古代の[[貨幣]]に由来する古典的人物像を古代の彫刻に見立てた[[トリックアート]]的な[[グリザイユ]]の[[メダイヨン]]を描いた。この部屋に描かれた膨大な画像の象徴的・寓意的意味はいまだ十分に解明されていないが、一般的に人間の様々な活動を表していると考えられている。修道院長ジョヴァンナ・ダ・ピアツェンツァの周囲は本人をはじめ教養豊かな人物が多く、コレッジョは彼らから制作に関して助言を得ることができたと考えられているが、ルネサンス期の高度に人文主義的な構想とそれを絵画表現として実現するコレッジョの芸術性はこれまでの彼の作品には明らかに見られないものである<ref name="B33">『ブリタニカ国際大百科辞典』8巻「コッレッジョ」p.33。</ref><ref>ルチーア・フォルナーリ・スキアンキ、p.22-26。</ref>。

コレッジョはサン・パオロ女子修道院の装飾事業の委託を受けたのと同じ年に、当時16歳だったジローラマ・メルリーニ(1503年-1545年)と結婚している。2人の間には息子{{仮リンク|ポンポニオ・アッレグリ|en|Pomponio Allegri}}、長女フランチェスカ・レティツィア、次女テリーナ・ルクレツィア、三女アンナ・ジェリアが生まれた。
{{Clear}}

; サン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ聖堂
[[File:San Giovanni Evangelista (Parma) - Dome.jpg|thumb|300px|サン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ聖堂天井画。]]
サン・パオロ女子修道院の仕事を終えたコレッジョは修道院長から新たな天井画の斡旋を得ることが出来た。それが1520年から1524年にかけて制作された{{仮リンク|サン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ聖堂|en|San Giovanni Evangelista (Parma)}}の天井画である。コレッジョはここでは天を見上げる[[十二使徒]]、[[ラテン教父|四教父]]、[[熾天使]]と、天から現れるキリストの姿を描いている<ref name="B33" /><ref>ルチーア・フォルナーリ・スキアンキ、p.36-37。</ref>。天井画における効果的な短縮法([[遠近法]]の技法の一種)の使用や、天井に開いた穴から本物の空を見上げているような[[錯視]]効果をねらった表現はマンテーニャによる影響が大きいが、コレッジョはサン・パオロ女子修道院で見せた16区分の表現を放棄し、そのうえで解放された自由で均質かつ躍動的な天上の登場人物を描いている。これらの人物像はいずれもミケランジェロやラファエロのような力強い記念碑的性質を備えており、コレッジョがローマで両者の芸術を実際にその目で見て吸収したことを思わせる。とりわけ自らの輝きで地上を照らすキリストはラファエロ最晩年の『変容』と類似しているため、ローマ旅行の証拠としてメングス以来論じられている<ref>百合草真理子「コレッジョ作、パルマ、サン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ聖堂の天井画及び壁面装飾の再解釈」p.34-35。</ref>。またこの装飾事業では、コレッジョとともにパルマ派の双璧をなすもう1人の画家[[パルミジャニーノ]]がデビューしており、パルマの芸術は最も成熟した時代を迎えることとなる<ref>ルチーア・フォルナーリ・スキアンキ「パルマのルネサンスとマニエリズモ」(『PARMA』p.25)</ref>。

コレッジョはこうした装飾事業を進めるかたわらで多くの注文も請け負った。1523年頃にサン・ミケーレ門ノマリア・ヴェルジネ祈祷所に『階段の聖母』({{it|Madonna della Scala}})を制作。同じころ、フランチェスコ修道会の依頼でリュネットの壁画『受胎告知』({{it|Annunciazione}})を制作した。また1524年から1525年にかけてサン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ聖堂のデル・ボーノ家礼拝堂の祭壇画『十字架降下』({{it|Compianto sul Cristo morto}})と『四聖人殉教』({{it|Martirio di quattro santi}})を制作した。特に『十字架降下』と『四聖人殉教』はコレッジョの創意にあふれた作品として注目される<ref name="B33" />。これらはいずれも[[パルマ国立美術館]]に所蔵されている。モデナでは[[聖セバスティアヌス]]同信会の注文で『聖セバスティアヌスの聖母』({{it|Madonna di San Sebastiano}})や『[[聖カタリナの神秘の結婚と聖セバスティアヌス]]』({{it|Matrimonio mistico di santa Caterina d'Alessandria alla presenza di san Sebastiano}})を制作した。

1520年代前半の諸作品でコレッジョは宗教的主題における登場人物の宗教的体験、特に個人的な内的[[エクスタシー|法悦]]を絵画として表現し、それをいかに鑑賞者の宗教的感情と結びつけるかに意識を傾けている。横長のキャンバスに描かれた『十字架降下』では、息絶えたキリストに駆け寄る家族の悲しみを描くことに焦点を当てており、その直前までキリストが吊るされていた[[十字架]]はもはや根元しか描いていない。『四聖人殉教』では当初は画面中央に描かれていた[[天使]]を画面の端に移し、[[殉教]]の瞬間に本人のみが見ることのできた存在として描いている。『聖セバスティアヌスの聖母』では天を見上げる聖セバスティアヌスと[[聖ロクス]]の幻視として、不定形の雲とともに聖母子を描き、『聖カタリナの神秘の結婚と聖セバスティアヌス』では[[聖カタリナ]]の法悦の瞬間を4人の登場人物の視線がカタリナの手に集中する形で描いている<ref>百合草 真理子「パルマ、サン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ聖堂の天井画と観者の視覚経験」p.11-12。</ref>。

<gallery widths="140px" heights="150px" perrow="4">
Correggio, compianto sul cristo morto, 1524 ca. 01.jpg|{{small|『十字架降下』1524年-1525年 パルマ国立美術館所蔵}}
Correggio, martirio dei ss. placido, flavia, eutichio e vittorino, 1524 ca. 01.jpg|{{small|『四聖人殉教』1524年-1525年 パルマ国立美術館所蔵}}
Correggio, Madonna di San Sebastiano.jpg|{{small|『聖セバスティアヌスの聖母』1525年-1526年頃 [[アルテ・マイスター絵画館]]所蔵}}
Correggio - The Mystic Marriage of St Catherine - WGA05351.jpg|{{small|『聖カタリナの神秘の結婚と聖セバスティアヌス』1525年-1526年頃 [[ルーヴル美術館]]所蔵}}
</gallery>

===晩年===
; パルマ大聖堂丸天井画
[[File:Cupola Duomo Parma Correggio.jpg|thumb|left|270px|パルマ大聖堂丸天井画『聖母被昇天』。]]
1520年代前半に受注した注文のいくつかは1530年頃に完成した。それらの作品はコレッジョの画業の中でも特に重要である。その代表的なものとして1522年に注文を受け、1526年以降に制作が進められ、1530年頃に完成したパルマ大聖堂天井画『聖母被昇天』が挙げられる。コレッジョは大きなクーポラに天井画を描いた最初の芸術家であり、短縮法で可能な天井画の表現の極致まで一足飛びに進んだだけでなく、年配のより偉大な芸術家に先んずることさえした。たとえばこの時点でミケランジェロの『[[最後の審判 (ミケランジェロ)|最後の審判]]』の制作は開始されていない<ref>1911年版『ブリタニカ百科事典』7巻、p.194。</ref>。この天井画においても幾何学的な区分表現は一切見られず、丸天井全体を1つの画面として捉えており、渦を巻きながら上昇する雲を描き、その合間に見え隠れする無数の天使や人物たちを極端な短縮法を用いて描いている。この{{仮リンク|イリュージョニスム|en|Illusionism (art)|label=イリュージョニスティック}}な表現によってコレッジョはそれまでの遠近法と空間表現を刷新し、天上的な高さへといたる聖母マリアのヴィジョンに現実的実体感を与えている。

パルマ大聖堂丸天井画と同じ年に注文を受けた『羊飼いの礼拝』(別名『ラ・ノッテ』)は1528年に、1523年に注文を受けた『聖ヒエロニムスのいる聖母』(別名『イル・ジョルノ』)は1529年頃に完成した。『羊飼いの礼拝』は[[レッジョ・エミリア]]のサン・プロスペロ聖堂のアルベルト・プラトネーリ家礼拝堂のために制作された作品で、西洋絵画における最初期の夜景画とされる。パルマのサンタントニオ聖堂の[[アルターピース|祭壇画]]として描かれた『聖ヒエロニムスのいる聖母』は、[[聖母マリア|聖母]]、幼児[[イエス・キリスト|キリスト]]、[[マグダラのマリア]]、[[天使]]らの甘美な表情のなかに宗教的崇高さをも表現した代表作である。両作品はそれぞれ「ラ・ノッテ(夜)」「イル・ジョルノ(昼)」と通称され、理念上の対となる作品と考えられている。

発注された年は明らかではないが、『[[キューピッドの教育]]』({{it|L'Educazione di Cupido}})と『[[眠れるヴィーナスとキューピッド、サテュロス]]』({{it|Venere e Amore spiati da un satiro}})が完成したのもこの頃である。マントヴァの貴族ニコラ・マフェイの注文によって制作されたと考えられる両作品はコレッジョに神話画という新たなジャンルの扉を開かせた。[[フェデリコ2世・ゴンザーガ]]のために描かれたユピテルの愛の神話画連作は、この2作品がきっかけになったと目されている。ユピテルの愛の神話画連作の4作品『レダと白鳥』({{it|Leda e il cigno}})、『[[ダナエ (コレッジョの絵画)|ダナエ]]』({{it|Danae}})、『[[ユピテルとイオ]]』({{it|Giove e Io}})、『[[ガニュメデスの略奪 (コレッジョ)|ガニュメデスの略奪]]』({{it|Ratto di Ganimede}})はコレッジョの最高傑作とされている。これらの作品はコレッジョの技法が優れた効果を発揮し、[[新プラトン主義]]の観点から異教の神々の物語とキリスト教とを統合し、神へといたる人間の魂の高揚を表現している。この一連の神話画に続いて、フェデリコの母でマントヴァの人文主義の中心人物であった[[イザベラ・デステ]]から請けた寓意画の対作品『美徳の寓意』({{it|Allegoria della Virtù}})と『悪徳の寓意』({{it|Allegoria del Vizio}})を制作した。この2作品はイザベラ・デステの有名な書斎を飾った。{{-}}

===死===
{{multiple image
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| image1 = Correggio's Death (1834 painting).jpg
| width1 = 160
| caption1 = [[アルベルト・キュヒラー]]と[[オクターヴ・タサエール]]の1834年の絵画『コレッジョの死』。
| image2 = Octave Tassaert - Death of Correggio - WGA22031.jpg
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| caption2 = それぞれ[[トーヴァルセン美術館]]と[[エルミタージュ美術館]]所蔵。
}}
コレッジョの死は突然だった。ヴァザーリによるとパルマでの絵画制作の報酬に銅貨60枚を受け取ったコレッジョはそれを故郷に持ち帰ろうと考えて、銅貨を背負って徒歩で帰ろうとした。しかし太陽の熱に打たれた彼が水を飲んだところ、[[胸膜炎]]に襲われ、激しい熱で倒れ、そのまま回復することなく世を去った<ref name="アデレード">{{cite web|title=Life of Antonio Da Correggio, Painter |accessdate=2019/08/28 |url=https://ebooks.adelaide.edu.au/v/vasari/giorgio/lives/part3.3.html |publisher=[[アデレード大学]]図書館}}</ref>。1534年3月5日のことだった。コレッジョは若いころに祭壇画を描いた故郷の{{仮リンク|サン・フランチェスコ教会 (コッレジョ)|it|Chiesa di San Francesco (Correggio)|label=サン・フランチェスコ教会}}に埋葬された<ref>{{cite web|title=Biografia di Antonio Allegri |accessdate=2019/08/28 |url=http://www.correggioarthome.it/Sezione.jsp?titolo=Biografia+di+Antonio+Allegri&idSezione=24 |publisher=Correggio Art Home}}</ref>。

== 弟子 ==
確実に弟子と言える者は少なく、画家の息子ポンポニオの他には{{仮リンク|フランチェスコ・カペリ|en|Francesco Capelli}}、{{仮リンク|ジョヴァンニ・ジャローラ|en|giovanni Giarola}}、{{仮リンク|アントニオ・ベルニエーリ|en|Antonio Bernieri}}、特に優れた画家としては{{仮リンク|ベルナルド・ガッティ|en|Bernardino Gatti}}が挙げられる<ref>『ブリタニカ国際大百科辞典』8巻「コレッジョ」p.33</ref>。

== 評価 ==
ヴァザーリはトスカーナにおけるレオナルド・ダ・ヴィンチ、ヴェネツイアにおけるジョルジョーネと同様に、コレッジョをロンバルディアにおける近代様式(マニエラ・モデルナ)の先駆的存在として位置づけている<ref name="小松健太郎">小松健太郎「コレッジョと十六世紀初期ポー川中流域の芸術」。</ref>。
{{Quotation|アントニオはロンバルディアで近代的な様式で絵画を描き始めた最初の人物であった。したがって、天才の彼がロンバルディアから出てローマに移り住んでいたならば、彼は奇跡を起こし、彼と同じ時代に偉大であると考えられていた多くの人間の額に冷汗をかかせていただろう。それというのも、彼は古代や現代の最高のものを見たことがないため彼の作品はそのようなものになっているが、仮にそれらを見たならば必然的に彼は自分自身を大幅に改善し、優れたものをさらに優れたものへと変え、最高の高みに達していたであろう。少なくとも、彼の他に色彩を巧みに扱った者はおらず、これまで他の芸術家が彼が肉体にのせた色彩の柔らかさ、そして彼が作品を完成させた優美さに見られるような、偉大な繊細さあるいはより大きな安らぎを絵画に与えた者はいない。|ジョルジョ・ヴァザーリ『[[画家・彫刻家・建築家列伝]]』<ref name="アデレード" />}}
この評価は17世紀以降に継承されることになるが、同時に問題も後世に投げかけることとなった。ヴァザーリのコレッジョがローマに行かず、ゆえに古代および当時の最も優れた芸術を知らなかったという評価は、現代にいたるまでコレッジョについて論じるうえで常に取りざたされている。17世紀に入るとイタリアの芸術は地域ごとの傾向によって理解されるようになった。{{仮リンク|ジョヴァンニ・バティスタ・アグッキ|en|Giovanni Battista Agucchi}}はイタリア絵画をローマ派、ヴェネツイア派、ロンバルディア派、 トスカーナ派の4つに分け、ヴァザーリを踏襲してコレッジョを色彩に長けたロンバルデイア派の筆頭としている。この評価が確立されると18世紀以降コレッジョの評価はさらに高まった<ref name="小松健太郎" />。

イタリアの思想家・著述家{{仮リンク|フランチェスコ・アルガロッティ|en|Francesco Algarotti}}は1762年の『絵画論』でコレッジョとパルミジャニーノを《優美さ》において[[古代ギリシア]]の画家[[アペレス]]に匹敵するとしたうえで、次のように絶賛している。
{{Quotation|しかも、コレッジョは、その手法の偉大さ、あるいは人物像に彼が込めた魂、色彩の柔らかさと調和、そして最大の効果を生み出す究極の繊細さ、さらには模倣不可能なほど素早く滑らかに走る筆遣いの点で、全て非の打ち所がない。|フランチェスコ・アルガロッティ『絵画論』<ref name="PARMA38">高梨光正「明暗において崇高な」(『PARMA』p.38)。</ref>}}

また[[イエズス会]]の文学者{{仮リンク|サヴェリオ・ベッティネッリ|en|Saverio Bettinelli}}も1781年の『イタリアの詩についての論考』で次のように称賛した。{{Quotation|誰もが知るところながら、優美さというものは、およそ、天と耕養された自然の恵みであり、内的な志向の問題であり、故に定義不能で、この優美さを表現できる天分は、絵画の分野のコレッジョのような、ごくわずかな人々にしか授けられていない。コレッジョは師も教科書もなかったにもかかわらず、修練と研究を怠ることはなかった。|サヴェリオ・ベッティネッリ『イタリアの詩についての論考』<ref name="PARMA38" />}}

こうしたコレッジョ讃美は新古典主義の画家であった[[アントン・ラファエル・メングス]]によって頂点に達した。メングスは『ラファエロ、コレッジョ、ティツィアーノに関する省察』の中で、画家としての立場からラファエロ、コレッジョ、ティツィアーノの3者をディセーニョ、色彩、明暗の3点から分析・比較することでコレッジョの芸術性を明らかにしたが、とりわけ明暗表現においてコレッジョが他の2者に優っていることを指摘し「明暗表現において崇高である」と述べている<ref>高梨光正「明暗において崇高な」(『PARMA』p.41)。</ref>。またメングスはコレッジョがローマに行ったのかどうかという問題について、『コレッジョ論考』の中でヴァザーリに反してローマに行き、ラファエロとミケランジェロの芸術を吸収したとの見解を示している<ref>高梨光正「明暗において崇高な」(『PARMA』p.42)。</ref>。

== 代表作 ==
<gallery widths="130px" heights="140px" perrow="5">
Correggio 047.jpg|{{small|『聖母子と幼い聖ヨハネ』 1516年頃 [[プラド美術館]]所蔵}}
Correggio - Madonna - WGA05335.jpg|{{small|『聖母子と幼い聖ヨハネ』 1514年-1517年頃 [[スフォルツァ城美術館]]所蔵}}
Correggio, adorazione dei magi, brera.jpg|{{small|『東方三博士の礼拝』1516年-1518年頃 [[ブレラ美術館]]所蔵}}
Correggio 015.jpg|{{small|『聖カタリナの神秘の結婚』 1518年頃 [[カポディモンテ美術館]]所蔵}}
Correggio Adoration.jpg|{{small|『幼子キリストを礼拝する聖母』 1520年頃 [[ウフィツィ美術館]]所蔵}}
Correggio-(antonio-allegri)-madonna-del-latte-36018-p.jpg|{{small|『授乳の聖母』 1520年頃 [[ブダペスト国立西洋美術館]]所蔵}}
Correggio 051.jpg|{{small|『[[籠の聖母 (コレッジョ)|籠の聖母]]』 1525年-1526年頃 ロンドン・ナショナル・ギャラリー所蔵}}
Correggio, madonna della scala, 1523 ca. 01.jpg|{{small|『階段の聖母』 1523年頃 [[パルマ国立美術館]]所蔵}}
Correggio Venus with Mercury and Cupid or The School of Love.jpg|{{small|『[[キューピッドの教育]]』 1528年頃 ロンドン・ナショナル・ギャラリー所蔵}}
Vénus et l'Amour découverts par un satyre, Corrège (Louvre INV 42) 02.jpg|{{small|『[[眠れるヴィーナスとキューピッド、サテュロス]]』 1528年頃 [[ルーヴル美術館]]所蔵}}
Correggio - Madonna and Child with Sts Jerome and Mary Magdalen (The Day) - WGA05327.jpg|{{small|『聖ヒエロニムスの聖母』(『イル・ジョルノ』) 1528年 パルマ国立美術館所蔵}}
Correggio_-_The_Holy_Night_-_Google_Art_Project.jpg|{{small|『羊飼いの礼拝』(『ラ・ノッテ』) 1529年 [[アルテ・マイスター絵画館]]所蔵}}
Correggio - Leda and the Swan - Google Art Project.jpg|{{small|『レダと白鳥』 1531年-1532年頃 [[絵画館 (ベルリン)|絵画館]]所蔵}}
Correggio 008.jpg||{{small|『[[ダナエ (コレッジョの絵画)|ダナエ]]』 1531年-1532年頃 ボルゲーゼ美術館}}
Correggio_028c.jpg|{{small|『[[ユピテルとイオ (コレッジョ)|ユピテルとイオ]]』 1531年-1532年頃 美術史美術館所蔵}}
Antonio Allegri, called Correggio - The Abduction of Ganymede - Google Art Project.jpg|{{small|『[[ガニュメデスの略奪 (コレッジョ)|ガニュメデスの略奪]]』 1531年-1532年頃 美術史美術館所蔵}}
Correggio 041.jpg|{{small|『スープ皿の聖母』 1530年頃 パルマ国立美術館所蔵}}
Correggio 043.jpg|{{small|『聖ゲオルギオスの聖母』 1531年-1532年頃 アルテ・マイスター絵画館所蔵}}
Correggio - Allegory of Virtues - WGA05338.jpg|{{small|『美徳の寓意』 1532年-1533年頃 ルーヴル美術館所蔵}}
Correggio - Allegory of Vices - WGA05339.jpg|{{small|『悪徳の寓意』 1532年-1534年頃 ルーヴル美術館所蔵}}
</gallery>


== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{Reflist}}
<references/>

== 参考文献 ==
*『コレッジョ』ファブリ世界名画集77、[[森洋子 (美術史家)|森洋子]]、[[平凡社]](1972年)
*『世界美術大全集 西洋編第13巻 イタリア・ルネサンス3』[[佐々木英也]]、[[森田義之]]責任編集、[[小学館]](1994年)
*『[[ヴァザーリ]] 続ルネサンス画人伝』[[平川祐弘]]、仙北谷茅戸、小谷年司 訳、[[白水社]](1995年)
* ルチア・フォルナーリ・スキアンキ『コレッジョ イタリア・ルネサンスの巨匠たち28』[[森田義之]]訳、[[東京書籍]](1995年)
* 『PARMA イタリア美術、もう一つの都』、[[国立西洋美術館]]、[[読売新聞社]](2007年)
* 『[[ブリタニカ国際大百科事典]] 大項目事典 8巻』(1973年)
* 小松健一郎「コレッジョと十六世紀初期ポー川中流域の芸術 「周縁」におけるマニエラ・モデルナの形成(要旨)」(2011年)
* 百合草真理子「[https://nagoya.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=22297&item_no=1&page_id=28&block_id=27 コレッジョ作、パルマ、サン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ聖堂の天井画及び壁面装飾の再解釈]」(2015年)
* 百合草 真理子「[https://nagoya.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=21722&item_no=1&page_id=28&block_id=27 パルマ、サン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ聖堂の天井画と観者の視覚経験 : 1510-20年代のコレッジョによる祭壇画・祈念画との関係から]」(2016年)
* {{1911|wstitle=Correggio|volume=7|page=194-195}}


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
{{commonscat}}
{{commons&cat|Antonio da Correggio|Correggio}}
* [http://www.ibiblio.org/wm/paint/auth/correggio/ Webmuseum Correggio]
* [http://www.ibiblio.org/wm/paint/auth/correggio/ Webmuseum Correggio]
* [http://www.correggioarthome.it/ CORREGGIO ART HOME]
* [http://www.correggioarthome.it/ CORREGGIO ART HOME]
* {{Internet Archive author|sname=Antonio da Correggio}}

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[[Category:イタリアの画家]]
[[Category:イタリアの画家]]

2020年10月4日 (日) 01:55時点における版

コレッジョ
『自画像』
生誕 Antonio Allegri
1489年
コッレッジョ
死没 1534年3月5日
コッレッジョ
国籍 イタリアの旗 イタリア
教育 ロレンツォ・アッレグリ
フランチェスコ・ビアンキ・フェッラーリ
著名な実績 油彩画・フレスコ画
(宗教画・神話画)
代表作 パルマ大聖堂天井画
『レダと白鳥』、『ダナエ
ユピテルとイオ
ガニュメデスの略奪
『聖ヒエロニムスの聖母』
『羊飼いの礼拝』
運動・動向 盛期ルネサンス、パルマ派
影響を受けた
芸術家
アンドレア・マンテーニャレオナルド・ダ・ヴィンチラファエロ・サンツィオロレンツォ・コスタジョルジョーネ
コレッジョの記念碑。パルマ。

アントニオ・アッレグリ・ダ・コレッジョ: Antonio Allegri da Correggio, 1489年頃–1534年)は、イタリア盛期ルネサンスを代表する画家。主に宗教画を描いたが、晩年の神話画によって特に有名である。長命ではなかったがパルマの芸術文化において革新的かつ中心的な役割を果たし、後世に多大な影響を与えた。

コレッジョは当時の芸術の潮流から離れたパルマの地において、15世紀の人文主義レオナルド・ダ・ヴィンチラファエロ・サンツィオミケランジェロ・ブオナローティなどの芸術に触発され、それ以外にも様々な影響を受けながら16世紀を代表する画家へと成長していった。中でもダ・ヴィンチに由来する自然描写とスフマートに熟達し、崇高とも評される光の明暗、人物を柔らかく表情豊かに描いた絵画は親しみ深い詩的情緒にあふれているだけでなく、パルマ大聖堂天井画に見られる流動的かつイリュージョニスティックな空間表現によって、約100年後のバロックの先駆的存在と見なされている。こうしたコレッジョの芸術性の評価は17世紀以降次第に進められ、18世紀に最高潮に達し、とりわけアントン・ラファエル・メングスはコレッジョをラファエロ、ティツィアーノと比較し、ラファエロに次ぐ第2の位置にコレッジョを置くほどであった[1]

ジョルジョ・ヴァザーリはコレッジョがローマを訪れていたら、もっと偉大な芸術家になったことは疑いないと考えたが、1518年頃から1520年頃を画期とし、それ以前と以降のコレッジョに大きな変化が見られるため、現在ではそれ以前にローマを訪れて当時の最新の芸術を吸収したことが定説と化している。しかし具体的な史料を欠いているため、それがどのようにして行われたのかは今もって謎に包まれており、実際にローマを訪れたのかどうかも含めてヴァザーリ以来論争が続いている。

生涯

コレッジョは北イタリアのモデナの近くのコレッジョで生まれ、同地で没した。本名はアントニオ・アッレグリで、布地職人の父ペレグリーノ・デ・アレグリスと母ベルナルディーナ・オルマーニとの間に生まれた[2]。コレッジョの生年ははっきりしない。40歳頃(没年1534年)に死去したというヴァザーリの記述から1494年頃と考えられていたが、現在では1489年頃と見なすことが通説となっている。これは1514年8月30日の日付を持つ『聖フランチェスコの祭壇画』の委託書が根拠となっている。当時、25歳未満の若者が仕事を引き受ける際には父親の承諾ないし判事の認可が必要だったが、この文書にはそれが見られないため、このときには25歳を越えていたと推測されている[2]。活動時期は大きく初期(1500年代初頭-1518年)、 芸術が成熟を迎える中期(1518年-1530年)、 晩年から死までの後期(1530年-1534年)の3つに分けられる。しかし同時代の他の偉大な芸術家たちに比べてコレッジョの生涯について残されている史料が少なく、特に修業時代から初期の経歴について不明な点が多い。よってコレッジョの芸術の発展は彼の絵画言語から再構成しなければならないという困難さがあり、そこから窺えるコレッジョが受けた諸影響は複雑でしばしば錯綜している。修業時代は伯父ロレンツォ・アッレグリやアントニオ・バルトロッティ(Antonio Bartolotti)のもとで学んだ後、1503年頃にモデナの画家フランチェスコ・ビアンキ・フェッラーリに師事したとされるが[3]アンドレア・マンテーニャロレンツォ・コスタの影響が顕著であり、さらにフランチェスコ・フランチャ、ラファエロ・サンツィオ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ・ブオナローティ、ジョルジョーネロレンツォ・ロットドッソ・ドッシらの影響も指摘されている[2]

初期

『聖エリザベトと幼い洗礼者ヨハネ』ミラノブレラ絵画館所蔵。

コレッジョは1506年マントヴァに移り、同地に重要な作品を残す画家マンテーニャの厳格な画風の影響を受けた。マンテーニャはこの年に死去しており、ロレンツォ・コスタが宮廷画家の地位にあった。言い伝えによるとコレッジョはサンタンドレア大聖堂英語版のマンテーニャ埋葬礼拝堂の装飾を完成させたとされ[3]、近年の研究は礼拝堂天井のペンナッキに20歳に満たないコレッジョの筆を認めている[2][4]

マンテーニャ『勝利の聖母』
コレッジョ『聖フランチェスコの聖母』

コレッジョの最初期の重要な作品はその5年後に描かれた。ミラノブレラ美術館の『キリストの誕生に立ち会う聖エリザベスと聖ヨハネ』(Natività con i santi Elisabetta e Giovannino, 1513年-1514年頃)やドレスデンアルテ・マイスター絵画館の『聖フランチェスコの聖母』(Madonna di San Francesco, 1514年-1515年頃)といった作品はいずれもマンテーニャの影響が見て取れ、特に後者はルーブル美術館の『勝利の聖母』を正確に模倣している。しかしこの作品は同時にダ・ヴィンチやラファエロ、ロレンツォ・コスタの影響も見て取れる[5]。マンテーニャの影響はこれ以降もしばしば見出されるが、それ以上にダ・ヴィンチに対して深い関心を抱いていたことはコレッジョの絵画から明らかであり、線によって形態を把握するマンテーニャの厳格な芸術から急速に脱却し、スフマートによって輪郭をぼかす柔らかな絵画表現と甘美な色彩を手に入れていく[3]

1516年以降のコレッジョは小品ながらもレオナルド的なうつむくように頭部を傾けながら微笑を浮かべた聖母子像を多く描くようになる[6]。1516年頃の作品とされるマドリードプラド美術館の『聖母子と幼い聖ヨハネ』(Madonna col Bambino e san Giovannino)や、1514年から1517年頃のものとされるミラノスフォルツァ城美術館の『聖母子と幼い聖ヨハネ』はいずれもダ・ヴィンチの影響を示しており、前者の洞窟のような暗い空間の中に座る聖母の姿はレオナルド・ダ・ヴィンチの『岩窟の聖母』を[5]、後者の聖ヨハネのポーズは『糸車の聖母』を思い出させる[7]。1517年から1520年頃のウフィツィ美術館の『聖フランチェスコのいるエジプトへの逃避途上の休息』(Riposo in Egitto con san Francesco)や、モデナのエステ美術館英語版の『カンポリの聖母』(Madonna Campori)ではレオナルドの様式が洗練されているだけでなく色彩が甘美さを増してくる。この頃の重要な作品としてブレラ絵画館の『東方の三博士の礼拝』や国立カポディモンテ美術館の『聖カタリナの神秘の結婚』があり、プラド美術館の『ノリ・メ・タンゲレ』(Noli me tangere)やエルミタージュ美術館の『貴婦人の肖像』になるとコレッジョの芸術が成熟期を迎える一歩手前に位置付けられている。

成熟期

サン・パオロ女子修道院装飾壁画
サン・パオロ修道院天井壁画。

1519年頃にはパルマに移り、同地のベネディクト会サン・パウロ修道院英語版の天井画を手掛けた。この仕事はベルゴンツィ家出身の修道院長ジョヴァンナ・ダ・ピアツェンツァイタリア語版の委託による。教養豊かな修道院長は1514年に大食堂と第一室の装飾をアレッサンドロ・アラルディ英語版に依頼した後、1519年に彼女の私的な居間(カメラ)の装飾をコレッジョに委託した。この仕事におけるコレッジョの壁面装飾は独創的である。天井を大きなドーム状の蔓棚に見立て、それを支える添え木によって16の区画に分割し、その1つ1つに天井から垂れ下がる薔薇色のリボンと植物の房飾り、祝祭的な戯れる2人1組のプットーと、古代の貨幣に由来する古典的人物像を古代の彫刻に見立てたトリックアート的なグリザイユメダイヨンを描いた。この部屋に描かれた膨大な画像の象徴的・寓意的意味はいまだ十分に解明されていないが、一般的に人間の様々な活動を表していると考えられている。修道院長ジョヴァンナ・ダ・ピアツェンツァの周囲は本人をはじめ教養豊かな人物が多く、コレッジョは彼らから制作に関して助言を得ることができたと考えられているが、ルネサンス期の高度に人文主義的な構想とそれを絵画表現として実現するコレッジョの芸術性はこれまでの彼の作品には明らかに見られないものである[8][9]

コレッジョはサン・パオロ女子修道院の装飾事業の委託を受けたのと同じ年に、当時16歳だったジローラマ・メルリーニ(1503年-1545年)と結婚している。2人の間には息子ポンポニオ・アッレグリ、長女フランチェスカ・レティツィア、次女テリーナ・ルクレツィア、三女アンナ・ジェリアが生まれた。

サン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ聖堂
サン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ聖堂天井画。

サン・パオロ女子修道院の仕事を終えたコレッジョは修道院長から新たな天井画の斡旋を得ることが出来た。それが1520年から1524年にかけて制作されたサン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ聖堂英語版の天井画である。コレッジョはここでは天を見上げる十二使徒四教父熾天使と、天から現れるキリストの姿を描いている[8][10]。天井画における効果的な短縮法(遠近法の技法の一種)の使用や、天井に開いた穴から本物の空を見上げているような錯視効果をねらった表現はマンテーニャによる影響が大きいが、コレッジョはサン・パオロ女子修道院で見せた16区分の表現を放棄し、そのうえで解放された自由で均質かつ躍動的な天上の登場人物を描いている。これらの人物像はいずれもミケランジェロやラファエロのような力強い記念碑的性質を備えており、コレッジョがローマで両者の芸術を実際にその目で見て吸収したことを思わせる。とりわけ自らの輝きで地上を照らすキリストはラファエロ最晩年の『変容』と類似しているため、ローマ旅行の証拠としてメングス以来論じられている[11]。またこの装飾事業では、コレッジョとともにパルマ派の双璧をなすもう1人の画家パルミジャニーノがデビューしており、パルマの芸術は最も成熟した時代を迎えることとなる[12]

コレッジョはこうした装飾事業を進めるかたわらで多くの注文も請け負った。1523年頃にサン・ミケーレ門ノマリア・ヴェルジネ祈祷所に『階段の聖母』(Madonna della Scala)を制作。同じころ、フランチェスコ修道会の依頼でリュネットの壁画『受胎告知』(Annunciazione)を制作した。また1524年から1525年にかけてサン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ聖堂のデル・ボーノ家礼拝堂の祭壇画『十字架降下』(Compianto sul Cristo morto)と『四聖人殉教』(Martirio di quattro santi)を制作した。特に『十字架降下』と『四聖人殉教』はコレッジョの創意にあふれた作品として注目される[8]。これらはいずれもパルマ国立美術館に所蔵されている。モデナでは聖セバスティアヌス同信会の注文で『聖セバスティアヌスの聖母』(Madonna di San Sebastiano)や『聖カタリナの神秘の結婚と聖セバスティアヌス』(Matrimonio mistico di santa Caterina d'Alessandria alla presenza di san Sebastiano)を制作した。

1520年代前半の諸作品でコレッジョは宗教的主題における登場人物の宗教的体験、特に個人的な内的法悦を絵画として表現し、それをいかに鑑賞者の宗教的感情と結びつけるかに意識を傾けている。横長のキャンバスに描かれた『十字架降下』では、息絶えたキリストに駆け寄る家族の悲しみを描くことに焦点を当てており、その直前までキリストが吊るされていた十字架はもはや根元しか描いていない。『四聖人殉教』では当初は画面中央に描かれていた天使を画面の端に移し、殉教の瞬間に本人のみが見ることのできた存在として描いている。『聖セバスティアヌスの聖母』では天を見上げる聖セバスティアヌスと聖ロクスの幻視として、不定形の雲とともに聖母子を描き、『聖カタリナの神秘の結婚と聖セバスティアヌス』では聖カタリナの法悦の瞬間を4人の登場人物の視線がカタリナの手に集中する形で描いている[13]

晩年

パルマ大聖堂丸天井画
パルマ大聖堂丸天井画『聖母被昇天』。

1520年代前半に受注した注文のいくつかは1530年頃に完成した。それらの作品はコレッジョの画業の中でも特に重要である。その代表的なものとして1522年に注文を受け、1526年以降に制作が進められ、1530年頃に完成したパルマ大聖堂天井画『聖母被昇天』が挙げられる。コレッジョは大きなクーポラに天井画を描いた最初の芸術家であり、短縮法で可能な天井画の表現の極致まで一足飛びに進んだだけでなく、年配のより偉大な芸術家に先んずることさえした。たとえばこの時点でミケランジェロの『最後の審判』の制作は開始されていない[14]。この天井画においても幾何学的な区分表現は一切見られず、丸天井全体を1つの画面として捉えており、渦を巻きながら上昇する雲を描き、その合間に見え隠れする無数の天使や人物たちを極端な短縮法を用いて描いている。このイリュージョニスティック英語版な表現によってコレッジョはそれまでの遠近法と空間表現を刷新し、天上的な高さへといたる聖母マリアのヴィジョンに現実的実体感を与えている。

パルマ大聖堂丸天井画と同じ年に注文を受けた『羊飼いの礼拝』(別名『ラ・ノッテ』)は1528年に、1523年に注文を受けた『聖ヒエロニムスのいる聖母』(別名『イル・ジョルノ』)は1529年頃に完成した。『羊飼いの礼拝』はレッジョ・エミリアのサン・プロスペロ聖堂のアルベルト・プラトネーリ家礼拝堂のために制作された作品で、西洋絵画における最初期の夜景画とされる。パルマのサンタントニオ聖堂の祭壇画として描かれた『聖ヒエロニムスのいる聖母』は、聖母、幼児キリストマグダラのマリア天使らの甘美な表情のなかに宗教的崇高さをも表現した代表作である。両作品はそれぞれ「ラ・ノッテ(夜)」「イル・ジョルノ(昼)」と通称され、理念上の対となる作品と考えられている。

発注された年は明らかではないが、『キューピッドの教育』(L'Educazione di Cupido)と『眠れるヴィーナスとキューピッド、サテュロス』(Venere e Amore spiati da un satiro)が完成したのもこの頃である。マントヴァの貴族ニコラ・マフェイの注文によって制作されたと考えられる両作品はコレッジョに神話画という新たなジャンルの扉を開かせた。フェデリコ2世・ゴンザーガのために描かれたユピテルの愛の神話画連作は、この2作品がきっかけになったと目されている。ユピテルの愛の神話画連作の4作品『レダと白鳥』(Leda e il cigno)、『ダナエ』(Danae)、『ユピテルとイオ』(Giove e Io)、『ガニュメデスの略奪』(Ratto di Ganimede)はコレッジョの最高傑作とされている。これらの作品はコレッジョの技法が優れた効果を発揮し、新プラトン主義の観点から異教の神々の物語とキリスト教とを統合し、神へといたる人間の魂の高揚を表現している。この一連の神話画に続いて、フェデリコの母でマントヴァの人文主義の中心人物であったイザベラ・デステから請けた寓意画の対作品『美徳の寓意』(Allegoria della Virtù)と『悪徳の寓意』(Allegoria del Vizio)を制作した。この2作品はイザベラ・デステの有名な書斎を飾った。

コレッジョの死は突然だった。ヴァザーリによるとパルマでの絵画制作の報酬に銅貨60枚を受け取ったコレッジョはそれを故郷に持ち帰ろうと考えて、銅貨を背負って徒歩で帰ろうとした。しかし太陽の熱に打たれた彼が水を飲んだところ、胸膜炎に襲われ、激しい熱で倒れ、そのまま回復することなく世を去った[15]。1534年3月5日のことだった。コレッジョは若いころに祭壇画を描いた故郷のサン・フランチェスコ教会イタリア語版に埋葬された[16]

弟子

確実に弟子と言える者は少なく、画家の息子ポンポニオの他にはフランチェスコ・カペリ英語版ジョヴァンニ・ジャローラ英語版アントニオ・ベルニエーリ英語版、特に優れた画家としてはベルナルド・ガッティ英語版が挙げられる[17]

評価

ヴァザーリはトスカーナにおけるレオナルド・ダ・ヴィンチ、ヴェネツイアにおけるジョルジョーネと同様に、コレッジョをロンバルディアにおける近代様式(マニエラ・モデルナ)の先駆的存在として位置づけている[18]

アントニオはロンバルディアで近代的な様式で絵画を描き始めた最初の人物であった。したがって、天才の彼がロンバルディアから出てローマに移り住んでいたならば、彼は奇跡を起こし、彼と同じ時代に偉大であると考えられていた多くの人間の額に冷汗をかかせていただろう。それというのも、彼は古代や現代の最高のものを見たことがないため彼の作品はそのようなものになっているが、仮にそれらを見たならば必然的に彼は自分自身を大幅に改善し、優れたものをさらに優れたものへと変え、最高の高みに達していたであろう。少なくとも、彼の他に色彩を巧みに扱った者はおらず、これまで他の芸術家が彼が肉体にのせた色彩の柔らかさ、そして彼が作品を完成させた優美さに見られるような、偉大な繊細さあるいはより大きな安らぎを絵画に与えた者はいない。 — ジョルジョ・ヴァザーリ『画家・彫刻家・建築家列伝[15]

この評価は17世紀以降に継承されることになるが、同時に問題も後世に投げかけることとなった。ヴァザーリのコレッジョがローマに行かず、ゆえに古代および当時の最も優れた芸術を知らなかったという評価は、現代にいたるまでコレッジョについて論じるうえで常に取りざたされている。17世紀に入るとイタリアの芸術は地域ごとの傾向によって理解されるようになった。ジョヴァンニ・バティスタ・アグッキ英語版はイタリア絵画をローマ派、ヴェネツイア派、ロンバルディア派、 トスカーナ派の4つに分け、ヴァザーリを踏襲してコレッジョを色彩に長けたロンバルデイア派の筆頭としている。この評価が確立されると18世紀以降コレッジョの評価はさらに高まった[18]

イタリアの思想家・著述家フランチェスコ・アルガロッティ英語版は1762年の『絵画論』でコレッジョとパルミジャニーノを《優美さ》において古代ギリシアの画家アペレスに匹敵するとしたうえで、次のように絶賛している。

しかも、コレッジョは、その手法の偉大さ、あるいは人物像に彼が込めた魂、色彩の柔らかさと調和、そして最大の効果を生み出す究極の繊細さ、さらには模倣不可能なほど素早く滑らかに走る筆遣いの点で、全て非の打ち所がない。 — フランチェスコ・アルガロッティ『絵画論』[19]

またイエズス会の文学者サヴェリオ・ベッティネッリ英語版も1781年の『イタリアの詩についての論考』で次のように称賛した。

誰もが知るところながら、優美さというものは、およそ、天と耕養された自然の恵みであり、内的な志向の問題であり、故に定義不能で、この優美さを表現できる天分は、絵画の分野のコレッジョのような、ごくわずかな人々にしか授けられていない。コレッジョは師も教科書もなかったにもかかわらず、修練と研究を怠ることはなかった。 — サヴェリオ・ベッティネッリ『イタリアの詩についての論考』[19]

こうしたコレッジョ讃美は新古典主義の画家であったアントン・ラファエル・メングスによって頂点に達した。メングスは『ラファエロ、コレッジョ、ティツィアーノに関する省察』の中で、画家としての立場からラファエロ、コレッジョ、ティツィアーノの3者をディセーニョ、色彩、明暗の3点から分析・比較することでコレッジョの芸術性を明らかにしたが、とりわけ明暗表現においてコレッジョが他の2者に優っていることを指摘し「明暗表現において崇高である」と述べている[20]。またメングスはコレッジョがローマに行ったのかどうかという問題について、『コレッジョ論考』の中でヴァザーリに反してローマに行き、ラファエロとミケランジェロの芸術を吸収したとの見解を示している[21]

代表作

脚注

  1. ^ 高梨光正「明暗において崇高な」(『PARMA』p.43)。
  2. ^ a b c d ルチーア・フォルナーリ・スキアンキ、p.4。
  3. ^ a b c 『ブリタニカ国際大百科辞典』8巻「コッレッジョ」p.32。
  4. ^ ルチーア・フォルナーリ・スキアンキ、p.6。
  5. ^ a b ルチーア・フォルナーリ・スキアンキ、p.8。
  6. ^ ルチーア・フォルナーリ・スキアンキ「パルマのルネサンスとマニエリズモ」(『PARMA』p.21)。
  7. ^ ルチーア・フォルナーリ・スキアンキ、p.12。
  8. ^ a b c 『ブリタニカ国際大百科辞典』8巻「コッレッジョ」p.33。
  9. ^ ルチーア・フォルナーリ・スキアンキ、p.22-26。
  10. ^ ルチーア・フォルナーリ・スキアンキ、p.36-37。
  11. ^ 百合草真理子「コレッジョ作、パルマ、サン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ聖堂の天井画及び壁面装飾の再解釈」p.34-35。
  12. ^ ルチーア・フォルナーリ・スキアンキ「パルマのルネサンスとマニエリズモ」(『PARMA』p.25)
  13. ^ 百合草 真理子「パルマ、サン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ聖堂の天井画と観者の視覚経験」p.11-12。
  14. ^ 1911年版『ブリタニカ百科事典』7巻、p.194。
  15. ^ a b Life of Antonio Da Correggio, Painter”. アデレード大学図書館. 2019年8月28日閲覧。
  16. ^ Biografia di Antonio Allegri”. Correggio Art Home. 2019年8月28日閲覧。
  17. ^ 『ブリタニカ国際大百科辞典』8巻「コレッジョ」p.33
  18. ^ a b 小松健太郎「コレッジョと十六世紀初期ポー川中流域の芸術」。
  19. ^ a b 高梨光正「明暗において崇高な」(『PARMA』p.38)。
  20. ^ 高梨光正「明暗において崇高な」(『PARMA』p.41)。
  21. ^ 高梨光正「明暗において崇高な」(『PARMA』p.42)。

参考文献

  • 『コレッジョ』ファブリ世界名画集77、森洋子平凡社(1972年)
  • 『世界美術大全集 西洋編第13巻 イタリア・ルネサンス3』佐々木英也森田義之責任編集、小学館(1994年)
  • ヴァザーリ 続ルネサンス画人伝』平川祐弘、仙北谷茅戸、小谷年司 訳、白水社(1995年)
  • ルチア・フォルナーリ・スキアンキ『コレッジョ イタリア・ルネサンスの巨匠たち28』森田義之訳、東京書籍(1995年)
  • 『PARMA イタリア美術、もう一つの都』、国立西洋美術館読売新聞社(2007年)
  • ブリタニカ国際大百科事典 大項目事典 8巻』(1973年)
  • 小松健一郎「コレッジョと十六世紀初期ポー川中流域の芸術 「周縁」におけるマニエラ・モデルナの形成(要旨)」(2011年)
  • 百合草真理子「コレッジョ作、パルマ、サン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ聖堂の天井画及び壁面装飾の再解釈」(2015年)
  • 百合草 真理子「パルマ、サン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ聖堂の天井画と観者の視覚経験 : 1510-20年代のコレッジョによる祭壇画・祈念画との関係から」(2016年)
  •  この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Correggio". Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 7 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 194-195.

外部リンク