「ジェームズ・ハミルトン (初代クランブラシル伯爵、1758年没)」の版間の差分
m Bot作業依頼: アイルランド島における32県の改名に伴うリンク修正依頼 (アーマー県) - log |
m Bot作業依頼: アイルランド島における32県の改名に伴うリンク修正依頼 (ダウン県) - log |
||
4行目: | 4行目: | ||
ジェームズ・ハミルトン({{lang|en|James Hamilton}})とアン・モードント({{lang|en|Anne Mordaunt}}、{{仮リンク|ジョン・モードント (初代モードント子爵)|en|John Mordaunt, 1st Viscount Mordaunt|label=初代モードント子爵ジョン・モードント}}の娘)の息子として生まれた<ref name="Cokayne">{{Cite book2|editor1-last=Cokayne|editor1-first=George Edward|editor1-link=ジョージ・エドワード・コケイン|editor2-last=Gibbs|editor2-first=Vicary|editor2-link=ヴィカリー・ギブス (セント・オールバンズ選挙区の庶民院議員)|editor3-last=Doubleday|editor3-first=H. Arthur|year=1913|title=Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Canonteign to Cutts)|volume=3|edition=2nd|location=London|publisher=The St. Catherine Press, Ltd.|language=en|page=212|url=https://archive.org/details/completepeerageo03coka/page/212}}</ref>。 |
ジェームズ・ハミルトン({{lang|en|James Hamilton}})とアン・モードント({{lang|en|Anne Mordaunt}}、{{仮リンク|ジョン・モードント (初代モードント子爵)|en|John Mordaunt, 1st Viscount Mordaunt|label=初代モードント子爵ジョン・モードント}}の娘)の息子として生まれた<ref name="Cokayne">{{Cite book2|editor1-last=Cokayne|editor1-first=George Edward|editor1-link=ジョージ・エドワード・コケイン|editor2-last=Gibbs|editor2-first=Vicary|editor2-link=ヴィカリー・ギブス (セント・オールバンズ選挙区の庶民院議員)|editor3-last=Doubleday|editor3-first=H. Arthur|year=1913|title=Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Canonteign to Cutts)|volume=3|edition=2nd|location=London|publisher=The St. Catherine Press, Ltd.|language=en|page=212|url=https://archive.org/details/completepeerageo03coka/page/212}}</ref>。 |
||
1715年から1719年まで{{仮リンク|ダンドーク選挙区 (アイルランド議会)|en|Dundalk (Parliament of Ireland constituency)|label=ダンドーク選挙区}}の代表として{{仮リンク|アイルランド庶民院|en|Irish House of Commons}}議員を務め、1719年5月13日に[[アイルランド貴族]]である'''リメリック市子爵'''({{lang|en|Viscount of the City of Limerick}}、「リメリック子爵」と短縮されることも多い)と[[ダウン |
1715年から1719年まで{{仮リンク|ダンドーク選挙区 (アイルランド議会)|en|Dundalk (Parliament of Ireland constituency)|label=ダンドーク選挙区}}の代表として{{仮リンク|アイルランド庶民院|en|Irish House of Commons}}議員を務め、1719年5月13日に[[アイルランド貴族]]である'''リメリック市子爵'''({{lang|en|Viscount of the City of Limerick}}、「リメリック子爵」と短縮されることも多い)と[[ダウン県]]における'''クランボイ男爵'''({{lang|en|Baron Claneboye}})に叙された<ref name="Cokayne" />。 |
||
[[1727年イギリス総選挙]]で{{仮リンク|愛国ホイッグ党|en|Patriot Whigs|label=野党派ホイッグ党}}の候補として{{仮リンク|グレートブリテン庶民院|en|House of Commons of Great Britain}}議員({{仮リンク|ウェンドーヴァー選挙区|en|Wendover (UK Parliament constituency)}}から出馬)に当選した<ref name="HOP">{{HistoryofParliament|1715|url=https://www.historyofparliamentonline.org/volume/1715-1754/member/hamilton-james-1691-1758|title=HAMILTON, James, 1st Visct. Limerick [I] (c.1691-1758), of Dundalk, co. Louth.|last=Sedgwick|first=Romney R.|authorlink=ロムニー・セジウィック|accessdate=26 October 2019}}</ref>。1729年の牢獄委員会({{lang|en|gaols committee}})で委員を務め、1733年にはジョージア植民地委員会({{lang|en|Common Council for the Province of Georgia}})の委員も務めた<ref name="HOP" />。[[1734年イギリス総選挙]]で落選したが、選挙申し立てで議席を取り戻した<ref name="HOP" />。1741年2月に[[ロバート・ウォルポール]]の解任動議を支持したが、[[1741年イギリス総選挙|同年の総選挙]]で落選、翌年1月に{{仮リンク|タヴィストック選挙区|en|Tavistock (UK Parliament constituency)}}で行われた補欠選挙で[[ジョン・ラッセル (第4代ベッドフォード公)|第4代ベッドフォード公爵ジョン・ラッセル]]の支持を受けて当選した<ref name="HOP" />。ウォルポール失脚後の組閣において、下級海軍卿({{lang|en|Lord of the Admiralty}})の1人として名を挙げられたが、庶民院でウォルポール内閣の秘密調査委員会を設立する動議を提出したことで[[ジョージ2世 (イギリス王)|ジョージ2世]]の怒りを買い、下級海軍卿就任を見送られた(その代わり、秘密調査委員会の主席に就任した)<ref name="HOP" />。1746年まで与党を支持した後、[[フレデリック・ルイス (プリンス・オブ・ウェールズ)|王太子フレデリック・ルイス]]の党派に加わり、フレデリック・ルイスが即位した暁に{{仮リンク|陸軍支払長官|en|Paymaster of the Forces}}か下級海軍卿に任命されるものとされた<ref name="HOP" />。[[1747年イギリス総選挙]]で[[ヘンリー・ハワード (第4代カーライル伯爵)|第4代カーライル伯爵ヘンリー・ハワード]]の支持を受けて{{仮リンク|モーペス選挙区|en|Morpeth (UK Parliament constituency)}}で当選したが、以降3年間をアイルランドで過ごし、1751年にいくらか動議と発言をしたのを最後にイングランド政界から身を引いた<ref name="HOP" />。 |
[[1727年イギリス総選挙]]で{{仮リンク|愛国ホイッグ党|en|Patriot Whigs|label=野党派ホイッグ党}}の候補として{{仮リンク|グレートブリテン庶民院|en|House of Commons of Great Britain}}議員({{仮リンク|ウェンドーヴァー選挙区|en|Wendover (UK Parliament constituency)}}から出馬)に当選した<ref name="HOP">{{HistoryofParliament|1715|url=https://www.historyofparliamentonline.org/volume/1715-1754/member/hamilton-james-1691-1758|title=HAMILTON, James, 1st Visct. Limerick [I] (c.1691-1758), of Dundalk, co. Louth.|last=Sedgwick|first=Romney R.|authorlink=ロムニー・セジウィック|accessdate=26 October 2019}}</ref>。1729年の牢獄委員会({{lang|en|gaols committee}})で委員を務め、1733年にはジョージア植民地委員会({{lang|en|Common Council for the Province of Georgia}})の委員も務めた<ref name="HOP" />。[[1734年イギリス総選挙]]で落選したが、選挙申し立てで議席を取り戻した<ref name="HOP" />。1741年2月に[[ロバート・ウォルポール]]の解任動議を支持したが、[[1741年イギリス総選挙|同年の総選挙]]で落選、翌年1月に{{仮リンク|タヴィストック選挙区|en|Tavistock (UK Parliament constituency)}}で行われた補欠選挙で[[ジョン・ラッセル (第4代ベッドフォード公)|第4代ベッドフォード公爵ジョン・ラッセル]]の支持を受けて当選した<ref name="HOP" />。ウォルポール失脚後の組閣において、下級海軍卿({{lang|en|Lord of the Admiralty}})の1人として名を挙げられたが、庶民院でウォルポール内閣の秘密調査委員会を設立する動議を提出したことで[[ジョージ2世 (イギリス王)|ジョージ2世]]の怒りを買い、下級海軍卿就任を見送られた(その代わり、秘密調査委員会の主席に就任した)<ref name="HOP" />。1746年まで与党を支持した後、[[フレデリック・ルイス (プリンス・オブ・ウェールズ)|王太子フレデリック・ルイス]]の党派に加わり、フレデリック・ルイスが即位した暁に{{仮リンク|陸軍支払長官|en|Paymaster of the Forces}}か下級海軍卿に任命されるものとされた<ref name="HOP" />。[[1747年イギリス総選挙]]で[[ヘンリー・ハワード (第4代カーライル伯爵)|第4代カーライル伯爵ヘンリー・ハワード]]の支持を受けて{{仮リンク|モーペス選挙区|en|Morpeth (UK Parliament constituency)}}で当選したが、以降3年間をアイルランドで過ごし、1751年にいくらか動議と発言をしたのを最後にイングランド政界から身を引いた<ref name="HOP" />。 |
2020年8月31日 (月) 00:11時点における版
初代クランブラシル伯爵ジェームズ・ハミルトン(英語: James Hamilton, 1st Earl of Clanbrassil PC (Ire)、1691年頃 – 1758年3月17日)は、イギリスの政治家、アイルランド貴族。
生涯
ジェームズ・ハミルトン(James Hamilton)とアン・モードント(Anne Mordaunt、初代モードント子爵ジョン・モードントの娘)の息子として生まれた[1]。
1715年から1719年までダンドーク選挙区の代表としてアイルランド庶民院議員を務め、1719年5月13日にアイルランド貴族であるリメリック市子爵(Viscount of the City of Limerick、「リメリック子爵」と短縮されることも多い)とダウン県におけるクランボイ男爵(Baron Claneboye)に叙された[1]。
1727年イギリス総選挙で野党派ホイッグ党の候補としてグレートブリテン庶民院議員(ウェンドーヴァー選挙区から出馬)に当選した[2]。1729年の牢獄委員会(gaols committee)で委員を務め、1733年にはジョージア植民地委員会(Common Council for the Province of Georgia)の委員も務めた[2]。1734年イギリス総選挙で落選したが、選挙申し立てで議席を取り戻した[2]。1741年2月にロバート・ウォルポールの解任動議を支持したが、同年の総選挙で落選、翌年1月にタヴィストック選挙区で行われた補欠選挙で第4代ベッドフォード公爵ジョン・ラッセルの支持を受けて当選した[2]。ウォルポール失脚後の組閣において、下級海軍卿(Lord of the Admiralty)の1人として名を挙げられたが、庶民院でウォルポール内閣の秘密調査委員会を設立する動議を提出したことでジョージ2世の怒りを買い、下級海軍卿就任を見送られた(その代わり、秘密調査委員会の主席に就任した)[2]。1746年まで与党を支持した後、王太子フレデリック・ルイスの党派に加わり、フレデリック・ルイスが即位した暁に陸軍支払長官か下級海軍卿に任命されるものとされた[2]。1747年イギリス総選挙で第4代カーライル伯爵ヘンリー・ハワードの支持を受けてモーペス選挙区で当選したが、以降3年間をアイルランドで過ごし、1751年にいくらか動議と発言をしたのを最後にイングランド政界から身を引いた[2]。
1746年4月14日にアイルランド枢密院の枢密顧問官に任命され、1756年11月24日にアーマー県におけるクランブラシル伯爵に叙された[1]。また、1756年から1758年に死去するまでラウス県総督を務めた[1]。
1758年3月17日にダブリンで死去、息子ジェームズが爵位を継承した[1]。
家族
1728年10月15日、デン・ハーグでヘンリエッタ・ベンティンク(ウィリアム・ベンティンクの娘)と結婚[1]、1男2女をもうけた[3]。
- ジェームズ(1730年 – 1791年) - 第2代クランブラシル伯爵
- アン(1802年4月16日没) - 1752年12月11日、初代ローデン伯爵ロバート・ジョスリンと結婚、子供あり
- キャロライン - 生涯未婚
出典
- ^ a b c d e f Cokayne, George Edward; Gibbs, Vicary; Doubleday, H. Arthur, eds. (1913). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Canonteign to Cutts) (英語). Vol. 3 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. p. 212.
- ^ a b c d e f g Sedgwick, Romney R. (1970). "HAMILTON, James, 1st Visct. Limerick [I] (c.1691-1758), of Dundalk, co. Louth.". In Sedgwick, Romney (ed.). The House of Commons 1715-1754 (英語). The History of Parliament Trust. 2019年10月26日閲覧。
- ^ "Clanbrassill, Earl of (I, 1756 - 1798)". Cracroft's Peerage (英語). 29 October 2003. 2019年10月26日閲覧。
アイルランド議会 | ||
---|---|---|
先代 ヘンリー・ベリンガム ヘンリー・ブルック |
庶民院議員(ダンドーク選挙区選出) 1715年 – 1719年 同職:ヘンリー・ブルック |
次代 ヘンリー・モリソン ヘンリー・ブルック |
グレートブリテン議会 | ||
先代 リチャード・ハンプデン リチャード・スティール |
庶民院議員(ウェンドーヴァー選挙区選出) 1727年 – 1734年 同職:リチャード・ハンプデン 1727年 – 1728年 ジョン・ハミルトン 1728年 – 1734年 |
次代 ジョン・ボトラー ジョン・ハンプデン |
先代 ジョン・ボトラー ジョン・ハンプデン |
庶民院議員(ウェンドーヴァー選挙区選出) 1735年 – 1741年 同職:ジョン・ハンプデン |
次代 ジョン・ハンプデン ヴァーニー伯爵 |
先代 チャールズ・フェイン シェラード・マナーズ |
庶民院議員(タヴィストック選挙区選出) 1742年 – 1747年 同職:フェイン子爵 |
次代 リチャード・ルーソン=ゴア トマス・ブランド |
先代 ロバート・オード ヘンリー・リデル |
庶民院議員(モーペス選挙区選出) 1747年 – 1754年 同職:ロバート・オード |
次代 ロバート・オード トマス・ダンコンブ |
アイルランドの爵位 | ||
爵位創設 | クランブラシル伯爵 第2期 1756年 – 1758年 |
次代 ジェームズ・ハミルトン |
リメリック市子爵 1719年 – 1758年 |