「ジョージ・マカートニー (初代マカートニー伯爵)」の版間の差分
→経歴: 訳語変更 |
m Bot作業依頼: アイルランド島における32県の改名に伴うリンク修正依頼 (アントリム県) - log |
||
1行目: | 1行目: | ||
[[ファイル:George Macartney, 1st Earl Macartney by Lemuel Francis Abbott.jpg|thumb|right|200px|ジョージ・マカートニー]] |
[[ファイル:George Macartney, 1st Earl Macartney by Lemuel Francis Abbott.jpg|thumb|right|200px|ジョージ・マカートニー]] |
||
初代マカートニー伯爵'''ジョージ・マカートニー'''({{lang-en|George Macartney, 1st Earl Macartney}}, [[バス勲章|KB]] [[1737年]][[5月14日]] - [[1806年]][[5月31日]])は、[[イギリス]]の[[外交官]]、植民地行政官。[[アイルランド王国]][[アントリム |
初代マカートニー伯爵'''ジョージ・マカートニー'''({{lang-en|George Macartney, 1st Earl Macartney}}, [[バス勲章|KB]] [[1737年]][[5月14日]] - [[1806年]][[5月31日]])は、[[イギリス]]の[[外交官]]、植民地行政官。[[アイルランド王国]][[アントリム県]]生まれの[[スコットランド人]]。 |
||
== 経歴 == |
== 経歴 == |
2020年8月30日 (日) 23:54時点における版
初代マカートニー伯爵ジョージ・マカートニー(英語: George Macartney, 1st Earl Macartney, KB 1737年5月14日 - 1806年5月31日)は、イギリスの外交官、植民地行政官。アイルランド王国アントリム県生まれのスコットランド人。
経歴
ダブリンのトリニティカレッジを卒業後、外交官として勤務し始めた。1763年には七年戦争の講和会議に参加し、パリ条約交渉の記録を行っている。1764年にはロシアのペテルブルク駐在公使を務める。以後、英領カリブ諸島植民地総督、マドラス総督(イギリス領インド)など植民地行政官を歴任した。
1769年にはアイルランド担当大臣となり、1772年の辞職とともにナイトに叙された。1776年にはグレナダ総督となり、マカートニー男爵(アイルランド貴族)に叙せられた。1768年にはアイルランド議会議員(1776年まで)、グレートブリテン議会議員となり、1781年まで務めた。1792年にはマカートニー伯爵(アイルランド貴族)を受ける。
イギリスと中国の清朝との間で行われていた貿易は広州一港に限られていたため、1791年、マカートニーは前任のカスカートの病死で、貿易改善交渉のための全権大使に起用される。マカートニーはイギリス王ジョージ3世が派遣する、乾隆帝の80歳を祝う使節団として派遣され、1792年9月にスピットヘッドからライオン号で本国を出発し、翌年7月に清へ到達。
イギリスからでは初の使節ということで歓迎され、9月に熱河離宮で避暑滞在中の乾隆帝に謁見する。華夷秩序に基づく中華世界において、周辺諸国からの外交使節は「皇帝の徳」を慕っての朝貢使節と認識され、マカートニーは朝貢使節が皇帝に対して行う中国式の儀礼である三跪九叩頭の礼(3回跪き、9回頭を地に擦りつける)をするよう要求される。彼はこれを拒否するが、最終的には清側が譲歩する形で、イギリス流に膝を屈して乾隆帝の手に接吻することで落ち着いた。だが貿易改善交渉、条約締結は拒絶され、帰国した。英中貿易の全権大使は次代のウィリアム・アマーストに引き継がれた。
坂野正高訳注で『中国訪問使節日記』(平凡社東洋文庫、初版1975年)がある。
帰国後は、イタリアでの任務やケープ植民地総督を歴任する。1795年にはグレートブリテン貴族としてマカートニー男爵に叙せられた。1798年11月に健康を害し退職した。1806年ミドルセックスのチジック (Chiswick) で69歳で亡くなった。
その他
子孫の一人であるジェーン・マカートニー(Jane Macartney)は2008年5月現在イギリスの新聞『タイムズ』の北京支社社長の任にあり、四川大地震の際に多くの報道を行った。(南方週末(南方周末)2008年5月29日D28面より)