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メルバーン子爵家の祖となった{{仮リンク|マシュー・ラム (初代準男爵)|label=マシュー・ラム|en|Sir Matthew Lamb, 1st Baronet}}は、{{仮リンク|ストックブリッジ選挙区|en|Stockbridge (UK Parliament constituency)}}や[[ピーターバラ|ピーターバラ選挙区]]選出の[[庶民院 (イギリス)|庶民院議員]]を務めたのち、[[1755年]]にグレートブリテン準男爵として'''([[ハートフォードシャー|ハートフォード州]]におけるブロケット・ホールの)準男爵'''<small>(Baronet, of Brocket Hall in the County of Hertford)</small>の称号を与えられた人物である。彼は{{仮リンク|サー・ジョン・クコーク|en|John Coke|John Coke}}の子孫である{{仮リンク|シャーロット・コーク|en|Charlotte Coke}}と結婚したため、サー・ジョンが建てた[[メルバーン・ホール]]はラム家に渡った。 |
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マシューが死去すると、シャーロットとの間に生まれていた息子の{{仮リンク|ペニストン・ラム (初代メルバーン子爵)|label=ペニストン|en|Peniston Lamb, 1st Viscount Melbourne|Peniston Lamb}}が第2代準男爵となった。彼も政治家で、初め{{仮リンク|ラジャーショール選挙区|en|Ludgershall (UK Parliament constituency)}}選出の、次いで{{仮リンク|マームズベリー選挙区|en|Malmesbury (UK Parliament constituency)}}選出の、さらに{{仮リンク|ニューポート (ワイト島)|label=ニューポート選挙区|en|Newport (Isle of Wight) (UK Parliament constituency)}}選出の庶民院議員を務めた。そして[[1770年]]に[[アイルランド貴族]]として'''キャヴァン州におけるキルモアのメルバーン男爵'''(Baron Melbourne, of Kilmore, in the County of Cavan)に叙された。ついで[[1781年]]には'''[[キャバン県]]におけるキルモアのメルバーン子爵'''(Viscount Melbourne,of Kilmore in the County of Cavan)に昇叙している。また彼は[[1815年]]に[[連合王国貴族]]爵位の'''[[ダービーシャー|ダービー州]]におけるメルバーンのメルバーン男爵'''(Baron Melbourne,of Melbourne, in the County of Derby)に叙されたため、以降の歴代当主は自動的に貴族院の議席を得ることとなった。 |
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初代メルバーン子爵の長男である{{仮リンク|ペニストン・ラム (1770-1805)|label=ペニストン|en|Peniston Lamb}}は早世したため、次男の[[ウィリアム・ラム (第2代メルバーン子爵)|ウィリアム]]が2代子爵となった。彼は[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]の政治家で、[[ジョージ・カニング|カニング]]内閣で{{仮リンク|アイルランド担当大臣|en|Chief Secretary for Ireland}}を務めたほか、[[チャールズ・グレイ (第2代グレイ伯爵)|グレイ]]内閣で[[内務大臣 (イギリス)|内務大臣]]となり、[[1834年]]に[[イギリスの首相|首相]]および[[貴族院院内総務]]を歴任した。この時の内閣は短命に終わったが、[[1835年]]にウィリアムは再び首相および貴族院院内総務となった。彼の首相としての治績は、死刑の適用範囲の縮小、地方行政改革、{{仮リンク|救貧法|en|Poor Law Amendment Act 1834}}の改正などが挙げられる。なお[[オーストラリア]]の[[メルボルン]]は彼にちなんで名づけられた。 |
初代メルバーン子爵の長男である{{仮リンク|ペニストン・ラム (1770-1805)|label=ペニストン|en|Peniston Lamb}}は早世したため、次男の[[ウィリアム・ラム (第2代メルバーン子爵)|ウィリアム]]が2代子爵となった。彼は[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]の政治家で、[[ジョージ・カニング|カニング]]内閣で{{仮リンク|アイルランド担当大臣|en|Chief Secretary for Ireland}}を務めたほか、[[チャールズ・グレイ (第2代グレイ伯爵)|グレイ]]内閣で[[内務大臣 (イギリス)|内務大臣]]となり、[[1834年]]に[[イギリスの首相|首相]]および[[貴族院院内総務]]を歴任した。この時の内閣は短命に終わったが、[[1835年]]にウィリアムは再び首相および貴族院院内総務となった。彼の首相としての治績は、死刑の適用範囲の縮小、地方行政改革、{{仮リンク|救貧法|en|Poor Law Amendment Act 1834}}の改正などが挙げられる。なお[[オーストラリア]]の[[メルボルン]]は彼にちなんで名づけられた。 |
2020年8月30日 (日) 23:41時点における版
メルバーン子爵(英: Viscount Melbourne)は、イギリスの子爵位。アイルランド貴族。メルボルン子爵やメルボーン子爵と表記されることもある。1781年にサー・ペニストン・ラム準男爵が叙位されたことに始まる。
歴史
メルバーン子爵家の祖となったマシュー・ラムは、ストックブリッジ選挙区やピーターバラ選挙区選出の庶民院議員を務めたのち、1755年にグレートブリテン準男爵として(ハートフォード州におけるブロケット・ホールの)準男爵(Baronet, of Brocket Hall in the County of Hertford)の称号を与えられた人物である。彼はサー・ジョン・クコークの子孫であるシャーロット・コークと結婚したため、サー・ジョンが建てたメルバーン・ホールはラム家に渡った。
マシューが死去すると、シャーロットとの間に生まれていた息子のペニストンが第2代準男爵となった。彼も政治家で、初めラジャーショール選挙区選出の、次いでマームズベリー選挙区選出の、さらにニューポート選挙区選出の庶民院議員を務めた。そして1770年にアイルランド貴族としてキャヴァン州におけるキルモアのメルバーン男爵(Baron Melbourne, of Kilmore, in the County of Cavan)に叙された。ついで1781年にはキャバン県におけるキルモアのメルバーン子爵(Viscount Melbourne,of Kilmore in the County of Cavan)に昇叙している。また彼は1815年に連合王国貴族爵位のダービー州におけるメルバーンのメルバーン男爵(Baron Melbourne,of Melbourne, in the County of Derby)に叙されたため、以降の歴代当主は自動的に貴族院の議席を得ることとなった。
初代メルバーン子爵の長男であるペニストンは早世したため、次男のウィリアムが2代子爵となった。彼はホイッグ党の政治家で、カニング内閣でアイルランド担当大臣を務めたほか、グレイ内閣で内務大臣となり、1834年に首相および貴族院院内総務を歴任した。この時の内閣は短命に終わったが、1835年にウィリアムは再び首相および貴族院院内総務となった。彼の首相としての治績は、死刑の適用範囲の縮小、地方行政改革、救貧法の改正などが挙げられる。なおオーストラリアのメルボルンは彼にちなんで名づけられた。
2代子爵の息子も早世したため、爵位は初代子爵の三男であるフレデリックが相続した。彼は外交官として活躍し、在バイエルン英国公使、在ポルトガル英国大使および在墺英国大使といった顕職を歴任した。彼は襲爵前の1839年に、連合王国貴族爵位のノッティンガム州におけるボーヴェイルのボーヴェイル男爵(Baron Beauvale, of Beauvale in the County of Nottingham)に叙されている。
3代子爵は1853年に死去したが、彼には息子がおらず、初代子爵の四男であるジョージ(グレイ内閣で内務政務次官を務めた政治家)も息子のないまますでに死去していたため、これらの爵位は断絶した。
一覧
ラム準男爵(ブロケット・ホールの) (1755年)
- サー・マシュー・ラム (初代準男爵) (1705年 - 1768年)
- サー・ペニストン・ラム (第2代準男爵) (1748年 - 1829年)
- 1770年、メルバーン男爵に叙位。
メルバーン男爵 (1770年)
- サー・ペニストン・ラム (初代メルバーン男爵) (1748年 - 1829年)
- 1770年、メルバーン子爵に叙位。
メルバーン子爵 (1781年)
- ペニストン・ラム (初代メルバーン子爵) (1748年 - 1829年)
- ウィリアム・ラム (第2代メルバーン子爵) (1779年 - 1848年)
- フレデリック・ラム (第3代メルバーン子爵) (1782年 - 1853年)
- 1853年、断絶。
ボーヴェイル男爵 (1839年)
- フレデリック・ラム (初代ボーヴェイル男爵) (1782年 - 1853年)
- 1848年、メルバーン子爵を相続。