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「ジョージ・レオナード・スタントン」の版間の差分

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== 略歴 ==
== 略歴 ==
[[アイルランド]]西部の[[ゴールウェイ]]のCarginsで生まれた。フランスの[[トゥールーズ]]の[[イエズス会]]の学校で学んだ後、[[モンペリエ大学]]で医学を学んだ。東インド会社に医師として雇われた後、法務に転じ、1779年に[[グレナダ]]で法務長官に任じられた。生涯、親しく付き合うこととなるグレナダ総督、[[ジョージ・マカートニー (初代マカートニー伯爵)|マカートニー伯爵]]に従って、1784年に南インドの[[マイソール王国]]の[[ティプー・スルターン]]との和平交渉団の一員に加わってインドを訪れた。1785年10月にアイルランドの准男爵に叙せられた<ref>{{London Gazette|issue=12699|page=522|date=12 November 1785}}</ref>。
[[アイルランド]]西部の[[ゴールウェイ]]のCarginsで生まれた。フランスの[[トゥールーズ]]の[[イエズス会]]の学校で学んだ後、[[モンペリエ大学]]で医学を学んだ。東インド会社に医師として雇われた後、法務に転じ、1779年に[[グレナダ]]で法務長官に任じられた。生涯、親しく付き合うこととなるグレナダ総督、[[ジョージ・マカートニー (初代マカートニー伯爵)|マカートニー伯爵]]に従って、1784年に南インドの[[マイソール王国]]の[[ティプー・スルターン]]との和平交渉団の一員に加わってインドを訪れた。1785年10月にアイルランドの准男爵に叙せられた<ref>{{London Gazette|issue=12699|page=522|date=12 November 1785}}</ref>。


1787年に[[王立協会フェロー]]に選ばれた<ref>{{cite web|url= http://www2.royalsociety.org/DServe/dserve.exe?dsqIni=Dserve.ini&dsqApp=Archive&dsqCmd=Show.tcl&dsqDb=Persons&dsqPos=0&dsqSearch=%28Surname%3D%27staunton%27%29 |title = Library and Archive Catalogue| publisher= Royal Society|accessdate= 21 October 2010}}</ref>。
1787年に[[王立協会フェロー]]に選ばれた<ref>{{cite web|url= http://www2.royalsociety.org/DServe/dserve.exe?dsqIni=Dserve.ini&dsqApp=Archive&dsqCmd=Show.tcl&dsqDb=Persons&dsqPos=0&dsqSearch=%28Surname%3D%27staunton%27%29 |title = Library and Archive Catalogue| publisher= Royal Society|accessdate= 21 October 2010}}</ref>。

2020年8月30日 (日) 23:23時点における版

レオナード・スタントン

初代准男爵、ジョージ・レオナード・スタントン(Sir George Leonard Staunton, 1st Baronet、1737年4月10日- 1801年1月14日)はアイルランド生まれのイギリス東インド会社の役人である。中国への外交団の公式記録をまとめた。

略歴

アイルランド西部のゴールウェイ県のCarginsで生まれた。フランスのトゥールーズイエズス会の学校で学んだ後、モンペリエ大学で医学を学んだ。東インド会社に医師として雇われた後、法務に転じ、1779年にグレナダで法務長官に任じられた。生涯、親しく付き合うこととなるグレナダ総督、マカートニー伯爵に従って、1784年に南インドのマイソール王国ティプー・スルターンとの和平交渉団の一員に加わってインドを訪れた。1785年10月にアイルランドの准男爵に叙せられた[1]

1787年に王立協会フェローに選ばれた[2]

1793年にマカートニー伯爵が率いる、中国との外交団の事務長に任じられ、マカートニー外交団は通商の面では中国の譲歩を得ることができなかったが、多くの中国に関する情報を得ることができた点で評価されている。帰国後、スタントンが、公式報告書の編集者となり、マカートニー伯爵や、中国までの航海を指揮したエラスムス・ガウワー(Sir Erasmus Gower)の論文を編集した。王立協会会長のジョゼフ・バンクスが、図版の選択と製作の手配を行った[3]

1881年にロンドンで没した。第2代准男爵を継いだ、ジョージ・スタントン(Sir George Staunton, 2nd Baronet)は12歳の時に父親の中国派遣に同行し、後に東洋学者となった。

著書の画像

オランダ語訳されたAn authentic account of an embassy from the King of Great Britain to the Emperor of Chinaの図版


参考文献

  1. ^ "No. 12699". The London Gazette (英語). 12 November 1785. p. 522.
  2. ^ Library and Archive Catalogue”. Royal Society. 21 October 2010閲覧。
  3. ^ Banks, Joseph. Papers of Sir Joseph Banks; Section 12: Lord Macartney’s embassy to China; Series 62: Papers concerning publication of the account of Lord Macartney's Embassy to China, ca 1797. [State Library of New South Wales.]