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解散時の国連事務総長はトリグブ・リー
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=== 晩年 ===
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1945年に{{仮リンク|ウッドロウ・ウィルソン・アワード|en|Woodrow Wilson Awards|label=ウッドロウ・ウィルソン賞}}を授与され、1948年には[[アイルランド国立大学]]から博士号を授与された。事務総長の退任後は[[ゴールウェイ]]{{仮リンク|レセス|en|Recess, County Galway}}に隠棲し、1959年に同地で死去した。生前は[[アイルランドの大統領|アイルランド大統領]]選挙への出馬が取り沙汰されたが、レスターは政治的な地位を求めず隠棲生活を送り、[[タイム (雑誌)|タイム紙]]はレスターの死亡記事で「国際的な和解者であり、難民の勇敢な友人」と彼の功績を称えた。
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== 出典 ==
== 出典 ==

2020年8月30日 (日) 23:22時点における版

ショーン・レスター
Seán Lester
生年月日 1888年9月28日
出生地 イギリスの旗 イギリス アントリム州キャリクファーガス英語版
没年月日 (1959-06-13) 1959年6月13日(70歳没)
死没地 アイルランドの旗 アイルランド ゴールウェイ県ゴールウェイレセス英語版
前職 ジャーナリスト
称号 ウッドロウ・ウィルソン賞英語版
配偶者 エリザベス・ルース・ティレル

国際連盟事務総長
在任期間 1940年8月31日 - 1946年4月18日

国際連盟事務次長
在任期間 1937年 - 1940年
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ショーン・アーネスト・レスター(Seán Ernest Lester、1888年9月28日 - 1959年6月13日)は、アイルランド外交官。最後の国際連盟事務総長(第3代)を務めた。

孫娘のスーザン・デナム英語版は、2011年から2017年にかけてアイルランド最高裁判所長官を務めた。

生涯

生い立ち

1888年に食料品店を経営するプロテスタントの家庭に生まれる。故郷のキャリクファーガス英語版ユニオニスト英語版の勢力が強い町だったが、レスターは若年のころからゲール語連盟に参加するなどナショナリストとして育った[1]。また、ナショナリスト組織アイルランド共和同盟英語版にも参加していた。レスターはダブリンに移る前はノース・ダウン・ヘラルド紙のジャーナリストとして活動し、1919年までの間に報道編集者に昇格した。

アイルランド独立戦争の後にアイルランド自由国が成立すると、友人が自由国政府に参加した縁で広報官として自由国政府に参加した。1920年にはエリザベス・ルース・ティレルと結婚し、3人の娘をもうけた[1]

外交官

1923年にアイルランド外務省に入省し、1929年にマイケル・マクホワイト英語版の後任として国際連盟のアイルランド常任理事に任命され、ジュネーヴに赴任する。レスターは連盟総会でアイルランド代表として活動し、1930年にアイルランド常任理事会内に新たな執行機関を組織した。国際連盟では主に外交部門で活動し、南米大陸の戦争解決に尽力したことを評価されたレスターは次第に活動の基点を国際連盟に置くようになった。

コロンビア・ペルー戦争の際には戦争解決のための委員会を統括し、戦争終結に尽力した[1]。また、チャコ戦争の際にも委員会を統括したが、こちらでは連盟が主導権を握ることは出来ず、アメリカ合衆国などの周辺国が主導して戦争は終結した[1]。1933年には高等弁務官に任命され、ポーランド回廊を巡り国際社会とナチス・ドイツとの間で紛争の火種となっていた自由都市ダンツィヒに派遣された。レスターはドイツ政府に対してユダヤ人の迫害を止めるように繰り返し抗議したが、報復としてダンツィヒのドイツ政府・ナチ党代表から職務をボイコットされた[2]

最後の国際連盟事務総長

1937年にジュネーヴに戻り、連盟事務次長に就任する。1940年に事務総長に就任するが、第二次世界大戦による混乱で、連盟の機能は既に停止状態となっていた。前任のジョセフ・アヴェノルオーストリアイギリスなど加盟国の職員を削減していたため、レスターの就任時には700人の警備員と100人の職員しか残っていなかった。その中でもレスターはジュネーヴに残り、限定的な形だが連盟の人道支援を継続した。戦争終結後の1946年4月18日に国際連盟の解散が第21回国際連盟総会で決定したのを受けて事務総長を辞任し、連盟の資産と機能を国際連合に引き渡した。

晩年

1945年にウッドロウ・ウィルソン賞英語版を授与され、1948年にはアイルランド国立大学から博士号を授与された。事務総長の退任後はゴールウェイ県レセス英語版に隠棲し、1959年に同地で死去した。生前はアイルランド大統領選挙への出馬が取り沙汰されたが、レスターは政治的な地位を求めず隠棲生活を送り、タイム紙はレスターの死亡記事で「国際的な和解者であり、難民の勇敢な友人」と彼の功績を称えた。

出典

  1. ^ a b c d The Times, (Obituary) 15 June 1959
  2. ^ Boylan, Henry (1998). A Dictionary of Irish Biography, 3rd Edition. Dublin: Gill and MacMillan. p. 222. ISBN 0-7171-2945-4 

参考文献

  • Stephen Ashworth Barcroft: The international civil servant: the League of Nations career of Sean Lester, 1929–1947; Dublin 1973
  • Douglas Gageby: The last secretary general: Sean Lester and the League of Nations; Dublin 1999; ISBN 1-86059-108-6
  • Arthur W. Rovine: The first fifty years: the secretary-general in world politics 1920–1970; Leyden 1970; ISBN 90-218-9190-5
  • Michael Kennedy: Ireland and the League of Nations 1919–1946: politics, diplomacy and international relations; Dublin 1996
  • Paul McNamara: Sean Lester, Poland and the Nazi Takeover of Danzig; Irish Academic Press Ltd 2008; ISBN 0-7165-2969-6

外部リンク

外交職
先代
ジョセフ・アヴェノル
国際連盟事務総長
第3代:1940年 - 1946年
次代
トリグブ・リー
国際連合事務総長