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「マイケル・D・ヒギンズ」の版間の差分

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'''マイケル・D・ヒギンズ'''({{lang-en|Michael D. Higgins}}、{{lang-ga|Mícheál D. Ó hUiginn}}、[[1941年]][[4月18日]] - )は、[[アイルランド]]の[[政治家]]、[[詩人]]、[[社会学者]]、[[文筆家]]、[[放送]]人。同国第9代[[アイルランドの大統領|大統領]](在任: [[2011年]][[11月11日]] - )
'''マイケル・D・ヒギンズ'''({{lang-en|Michael D. Higgins}}、{{lang-ga|Mícheál D. Ó hUiginn}}、[[1941年]][[4月18日]] - )は、[[アイルランド]]の[[政治家]]、[[詩人]]、[[社会学者]]、[[文筆家]]、[[放送]]人。同国第9代[[アイルランドの大統領|大統領]](在任: [[2011年]][[11月11日]] - )


大統領選挙に立候補するために[[労働党 (アイルランド)|労働党]]を離脱するまで、同党の総裁(党首とは異なる)を務めていた。2011年2月まで[[ゴールウェイ|ゴルウェイ]]西選挙区選出の下院([[ドイル・エアラン]])議員であった。1993年から1997年まで芸術・文化・[[ゲール語]]大臣を務めた。
大統領選挙に立候補するために[[労働党 (アイルランド)|労働党]]を離脱するまで、同党の総裁(党首とは異なる)を務めていた。2011年2月まで[[ゴールウェイ|ゴルウェイ]]西選挙区選出の下院([[ドイル・エアラン]])議員であった。1993年から1997年まで芸術・文化・[[ゲール語]]大臣を務めた。


== 政治家としての経歴 ==
== 政治家としての経歴 ==

2020年8月30日 (日) 23:21時点における版

マイケル・ダニエル・ヒギンズ
Michael Daniel Higgins(英語)
Mícheál Daniél Ó hUiginn(アイルランド語)
生年月日 (1941-04-18) 1941年4月18日(83歳)
出生地 アイルランドの旗 アイルランドリムリック
出身校 アイルランド国立大学ゴールウェイ校
所属政党労働党→) 
無所属
配偶者 サビナ・コイン

在任期間 2011年11月11日 - 現職
首相 エンダ・ケニー
レオ・バラッカー
ミホル・マーティン
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マイケル・D・ヒギンズ英語: Michael D. Higginsアイルランド語: Mícheál D. Ó hUiginn1941年4月18日 - )は、アイルランド政治家詩人社会学者文筆家放送人。同国第9代大統領(在任: 2011年11月11日 - )

大統領選挙に立候補するために労働党を離脱するまで、同党の総裁(党首とは異なる)を務めていた。2011年2月までゴルウェイ西選挙区選出の下院(ドイル・エアラン)議員であった。1993年から1997年まで芸術・文化・ゲール語大臣を務めた。

政治家としての経歴

ヒギンズはアイルランド国立大学ゴールウェイ校 (UCG) の成人学生だったときにフィアナ・フォイル党の党員となったが、すぐに労働党に鞍替えした。1969年と1973年の総選挙で労働党公認候補として立候補したが落選した。このときヒギンズのために選挙運動を行った一人に、当時UCGの学生で後に労働党の党首となったエイモン・ギルモアがいる。ヒギンズは1973年にリアム・コスグレイブ首相によって、上院(シャナズ・エアラン)議員に任命された。ヒギンズは1981年の総選挙で初めて下院(ドイル・エアラン)に当選し、1982年2月の総選挙でも再選された。同年11月の選挙で議席を失ったが、アイルランド国立大学選出議員として上院に復帰した。また、1982年から1983年と1991年から1992年の2期にわたってゴールウェイ市長を務めている。労働党においては、1980年代に連立政権のパートナーとなることに反対した議員の一人であった。

ヒギンズは1987年の総選挙で下院に当選すると、2011年まで議席を維持した。1993年には芸術・文化・ゲール語大臣として入閣を果たした。在任中に、ヒギンズは物議を醸していた放送法第31条(シン・フェイン党員とIRAメンバーに放送へのアクセスを制限する条項)を廃止し、休眠していたアイルランド映画庁を復活させ、アイルランド語専門テレビ局(現在のTG4)を開局した。2003年に労働党総裁の座をプロンシアス・デ・ロッサから引き継ぎ、また外交に関する労働党のスポークスマンを務めた。

2004年の大統領選でヒギンズは立候補の意向を示唆したが、労働党が候補者を立てないことを決定したため断念した。

2010年10月に、2011年2月の総選挙には立候補しないことを表明した。この頃までヒギンズはダブリン市内の質素な2DKのマンションで暮らしていた。

2011年10月27日の大統領選挙英語版で当選、11月11日に就任。77歳で臨んだ2018年10月26日の大統領選挙英語版では得票率55.8%で再選された[1]

政治家以外の活動

ヒギンズは人権活動家であり、ニカラグアチリカンボジアエルサルバドルイラクソマリアなど世界各地の紛争について執筆している。2010年には、ガザ自由船団を擁護するスピーチを下院で行っている。1992年、世界各地での平和活動が認められ、ヘルシンキの国際平和ビューローが制定したショーン・マクブライド平和賞の最初の受賞者となった。ロナルド・レーガン政府における米国の外交政策については、明確に批判的な立場をとった。

政治家としての経歴のほかに、ヒギンズは詩人、文筆家、放送人でもある。観念論、文学における社会学、政治における依存国過信症など、幅広い分野にわたって政治および哲学の出版物に寄稿している。イギリスチャンネル4において、モントセラトをテーマに『もうひとつのエメラルドの島』と題したテレビ映画の脚本とプレゼンターを務めた。また、RTÉでノエル・ブラウン(アイルランドの政治家)の生涯についてドキュメンタリーを制作している。詩人としては、さまざまな雑誌に作品を発表しているほか、『裏切り』(1990年)、『炎の季節』(2004年)、『不毛の季節』(2004年)の3冊の詩集を発表している。

ヒギンズはスポーツにも関心があり、毎夏ゴールウェイの競馬場に出かけるほか、リーグ・オブ・アイルランド(アイルランドのサッカー・リーグ)のゴールウェイ・ユナイテッドの総裁を務めている(名誉職)。

2014年4月5日、映画産業及びテレビ産業への貢献が評価されて、第11回アイルランド・アカデミー賞の名誉賞を受賞した[2]

家族

友人宅で開かれたホーム・パーティーで女優のサビナ・コインと出会い、1974年に結婚した。2人の間には3男1女の子供がいる。

脚注

公職
先代
メアリー・マッカリース
アイルランドの旗 アイルランド大統領
2011年 -
次代
-