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1735年から1762年まで{{仮リンク|アルドフェルト選挙区|en|Ardfert (Parliament of Ireland constituency)}}の代表として{{仮リンク|アイルランド庶民院|en|Irish House of Commons}}議員を務めた<ref name="UHF">{{Cite web2|language=en|website=Ulster Historical Foundation|title=Biographies of Members of the Irish Parliament 1692-1800|url=https://www.ancestryireland.com/family-records/biographies-of-the-members-of-the-irish-parliament/?search1=William&search2=Crosbie&submit=Search|access-date=1 August 2020}}</ref>。 |
1735年から1762年まで{{仮リンク|アルドフェルト選挙区|en|Ardfert (Parliament of Ireland constituency)}}の代表として{{仮リンク|アイルランド庶民院|en|Irish House of Commons}}議員を務めた<ref name="UHF">{{Cite web2|language=en|website=Ulster Historical Foundation|title=Biographies of Members of the Irish Parliament 1692-1800|url=https://www.ancestryireland.com/family-records/biographies-of-the-members-of-the-irish-parliament/?search1=William&search2=Crosbie&submit=Search|access-date=1 August 2020}}</ref>。 |
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1762年1月13日に父が死去すると、[[ブランデン男爵]]位を継承、23日に{{仮リンク|アイルランド貴族院|en|Irish House of Lords}}議員に就任した<ref name="Cokayne" />。その後、1771年11月30日に[[アイルランド貴族]]である[[ケリー |
1762年1月13日に父が死去すると、[[ブランデン男爵]]位を継承、23日に{{仮リンク|アイルランド貴族院|en|Irish House of Lords}}議員に就任した<ref name="Cokayne" />。その後、1771年11月30日に[[アイルランド貴族]]である[[ケリー県]]における'''アルドフェルトのクロスビー子爵'''に叙され<ref>{{London Gazette|issue=11196|page=3|date=12 November 1771}}</ref>、同年12月3日にクロスビー子爵としてアイルランド貴族院議員に就任した<ref name="Cokayne" />。1766年3月11日に{{仮リンク|アイルランド枢密院|en|Privy Council of Ireland}}の枢密顧問官に任命された後、1776年7月22日にアイルランド貴族である[[コーク県]]における'''グランドア伯爵'''に叙された<ref name="Cokayne" /><ref>{{London Gazette|issue=11679|page=1|date=29 June 1776}}</ref>。 |
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1770年から1781年まで{{仮リンク|ケリー州首席治安判事|en|Custos Rotulorum of Kerry}}を務めた<ref name="Cokayne" />。 |
1770年から1781年まで{{仮リンク|ケリー州首席治安判事|en|Custos Rotulorum of Kerry}}を務めた<ref name="Cokayne" />。 |
2020年8月30日 (日) 23:00時点における版
初代グランドア伯爵ウィリアム・クロスビー(英語: William Crosbie, 1st Earl of Glandore PC (Ire)、1716年5月 – 1781年4月11日)は、アイルランド王国の貴族、政治家。
生涯
初代ブランデン男爵モーリス・クロスビーとエリザベス・アン・フィッツモーリス(Elizabeth Anne Fitzmaurice、1757年12月17日没、初代ケリー伯爵トマス・フィッツモーリスの娘)の息子として、1716年5月に生まれた[1]。1732年5月5日、ダブリン大学トリニティ・カレッジに入学した[1]。
1735年から1762年までアルドフェルト選挙区の代表としてアイルランド庶民院議員を務めた[2]。
1762年1月13日に父が死去すると、ブランデン男爵位を継承、23日にアイルランド貴族院議員に就任した[1]。その後、1771年11月30日にアイルランド貴族であるケリー県におけるアルドフェルトのクロスビー子爵に叙され[3]、同年12月3日にクロスビー子爵としてアイルランド貴族院議員に就任した[1]。1766年3月11日にアイルランド枢密院の枢密顧問官に任命された後、1776年7月22日にアイルランド貴族であるコーク県におけるグランドア伯爵に叙された[1][4]。
1770年から1781年までケリー州首席治安判事を務めた[1]。
1781年4月11日に死去、息子ジョンが爵位を継承した[1]。
家族
1745年11月、セオドシア・ブライ(Theodosia Bligh、1723年頃 – 1777年5月20日、初代ダーンリー伯爵ジョン・ブライの娘)と結婚[1]、2男3女をもうけた[5]。
- モーリス(1749年)
- ジョン(1752年 – 1815年) - 第2代グランドア伯爵
- アン(1754年12月1日 – ?) - 1775年5月、ジョン・ウィリアム・タルボット(John William Talbot、ウィリアム・タルボットの息子)と結婚、子供あり
- セオドシア(1756年3月12日 – 1782年6月3日)
- アラベラ(1757年10月21日 – ?) - 1783年2月27日、エドワード・ウォード(1753年 – 1812年、初代バンガー子爵バーナード・ウォードの息子)と結婚、子供あり
1777年11月1日、ジェーン・ヴェジー(Jane Vesey、1787年9月没、エドワード・ヴェジーの娘)と再婚したが、2人の間に子供はいなかった[1]。
出典
- ^ a b c d e f g h i Cokayne, George Edward; Gibbs, Vicary; Doubleday, Herbert Arthur, eds. (1926). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Eardley of Spalding to Goojerat) (英語). Vol. 5 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. p. 659.
- ^ "Biographies of Members of the Irish Parliament 1692-1800". Ulster Historical Foundation (英語). 2020年8月1日閲覧。
- ^ "No. 11196". The London Gazette (英語). 12 November 1771. p. 3.
- ^ "No. 11679". The London Gazette (英語). 29 June 1776. p. 1.
- ^ "Glandore, Earl of (I, 1776 - 1815)". Cracroft's Peerage (英語). 18 June 2006. 2020年8月1日閲覧。
アイルランド議会 | ||
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先代 ヘンリー・ローズ ウィリアム・クロスビー |
庶民院議員(アルドフェルト選挙区選出) 1735年 – 1762年 同職:ウィリアム・クロスビー 1735年 – 1743年 エドマンド・マローン 1743年 – 1758年 モーリス・コピンジャー 1758年 – 1762年 |
次代 ランスロット・クロスビー モーリス・コピンジャー |
アイルランドの爵位 | ||
爵位創設 | グランドア伯爵 1776年 – 1781年 |
次代 ジョン・クロスビー |
クロスビー子爵 1771年 – 1781年 | ||
先代 モーリス・クロスビー |
ブランデン男爵 1762年 – 1781年 |