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「フランシス・バーナード (第3代バンドン伯爵)」の版間の差分

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第2代バンドン伯爵[[ジェイムズ・バーナード (第2代バンドン伯爵)|ジェイムズ・バーナード]]と、その妻で[[キャシェル大主教]][[チャールズ・ブロドリック]]の長女メアリー・スーザン・アルビニアの子として、[[ロンドン]]のグローヴナー街で生まれる<ref name = Dod>{{cite book | last = Dod | first = Robert P. | title = The Peerage, Baronetage and Knightage of Great Britain and Ireland | year = 1860 | publisher = Whitaker and Co. | location = London | pages = 102 }}</ref>。[[オックスフォード大学]]の[[オリオル・カレッジ (オックスフォード大学)|オリオル・カレッジ]]で学び、1830年に学士号を得て卒業、その4年後には修士号を得た<ref name = Dod/>。
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1831年1月からは父も議員を務めたバンドン選挙区から[[イギリスの議会|連合王国議会]][[庶民院 (イギリス)|庶民院]]に入り、7月まで務めた。1842年から1856年まで再度議員を務めた後、父から伯爵位を継承、2年後には[[貴族代表議員]]に選ばれた。1874年には[[コーク]][[知事]]に任命され、1877年に没するまでその地位にあった。
1831年1月からは父も議員を務めたバンドン選挙区から[[イギリスの議会|連合王国議会]][[庶民院 (イギリス)|庶民院]]に入り、7月まで務めた。1842年から1856年まで再度議員を務めた後、父から伯爵位を継承、2年後には[[貴族代表議員]]に選ばれた。1874年には[[コーク]][[知事]]に任命され、1877年に没するまでその地位にあった。


妻はトーマス・ウィットモアの長女キャサリン・メアリーで、1832年に結婚、一男二女を儲けた。妻は1873年12月に死亡、バーナードはその4年後、1877年2月にコーク州のバーナード城で死んだ。伯爵位は一人息子の[[ジェームズ・バーナード (第4代バンドン伯爵)|ジェイムズ]]が継いだ。
妻はトーマス・ウィットモアの長女キャサリン・メアリーで、1832年に結婚、一男二女を儲けた。妻は1873年12月に死亡、バーナードはその4年後、1877年2月にコーク州のバーナード城で死んだ。伯爵位は一人息子の[[ジェームズ・バーナード (第4代バンドン伯爵)|ジェイムズ]]が継いだ。

2020年8月30日 (日) 22:46時点における版

フランシス・バーナード(Francis Bernard、3rd Earl of Bandon、1810年1月3日 - 1877年2月17日)は、アイルランド貴族、政治家。第3代バンドン伯爵。1830年から1856年まではバーナード子爵の儀礼称号を称した。

第2代バンドン伯爵ジェイムズ・バーナードと、その妻でキャシェル大主教チャールズ・ブロドリックの長女メアリー・スーザン・アルビニアの子として、ロンドンのグローヴナー街で生まれる[1]オックスフォード大学オリオル・カレッジで学び、1830年に学士号を得て卒業、その4年後には修士号を得た[1]

1831年1月からは父も議員を務めたバンドン選挙区から連合王国議会庶民院に入り、7月まで務めた。1842年から1856年まで再度議員を務めた後、父から伯爵位を継承、2年後には貴族代表議員に選ばれた。1874年にはコーク県知事に任命され、1877年に没するまでその地位にあった。

妻はトーマス・ウィットモアの長女キャサリン・メアリーで、1832年に結婚、一男二女を儲けた。妻は1873年12月に死亡、バーナードはその4年後、1877年2月にコーク州のバーナード城で死んだ。伯爵位は一人息子のジェイムズが継いだ。

脚注

  1. ^ a b Dod, Robert P. (1860). The Peerage, Baronetage and Knightage of Great Britain and Ireland. London: Whitaker and Co.. pp. 102