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「ジョン・ケリー・シニア (フォーク・ミュージシャン)」の版間の差分

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1945年、ジョンはウィックロー州出身のフランシス・ヒリヤード (Frances Hilliard) と結婚して<ref name="fleadh2017"/>[[ダブリン]]に移り住み、カペル・ストリート (Capel Street) に小さな楽器店 The Horse Shoe Shop を開いた。以降の数十年間、ダブリンでの伝統音楽の発展に大きく関わる<ref name="official">{{cite web|title=John Kelly Capel Street |publisher= Aoife Kelly |url=http://johnkellycapelstreet.ie/ |accessdate=25 January 2020}}</ref>。

2020年8月30日 (日) 22:39時点における版

ジョン・ケリー
John Kelly
生誕 1912年
イギリスの旗 イギリス アイルランドの旗 アイルランドクレア県 Rehy West
死没 1989年(76 - 77歳没)
ジャンル アイルランド音楽ケルト音楽、民俗音楽
職業 ミュージシャン
担当楽器 フィドルコンサーティーナ
レーベル トピック・レコード(en:Topic Records
公式サイト johnkellycapelstreet.ie

ジョン・ケリー(John Kelly、1912年1989年)は、アイルランドフィドルコンサーティーナ奏者。同名の息子との区別のため、ジョン・ケリー・シニアと呼ばれることがある。

略歴

ジョンは1912年、クレア県西南端ループ・ヘッド半島英語版のRehy West(Kilbaha近く)にて、父マイケル (Michael) と母エリザベス (Elizabeth) の間に生まれた[1]。ジョンは幼少期、エリザベスや近くのKilclogherに住む伯父トム・キーン (Tom Keane) の演奏するコンサーティーナを聴いて育った[2]

1945年、ジョンはウィックロー州出身のフランシス・ヒリヤード (Frances Hilliard) と結婚して[3]ダブリンに移り住み、カペル・ストリート (Capel Street) に小さな楽器店 The Horse Shoe Shop を開いた。以降の数十年間、ダブリンでの伝統音楽の発展に大きく関わる[1]

1989年3月、77歳で亡くなる[3]

ダブリンでの音楽活動

1935年の公共ダンスホール法Public Dance Halls Act 1935以来ダンス音楽が低調となっていた中、ダブリンでジョンが開いた店は伝統音楽のミュージシャンにとって貴重な存在であり、市外から来たミュージシャンが立ち寄り出会う場として知られるようになった[3]

1936年に復活し、1946年にトーマス・ストリート (Thomas Street) へ移転したパイパーズ・クラブ (Pipers’ Club)[4]は、当時のダブリンの伝統音楽の場の一つとなっていたが、ジョンはそこでの音楽への参加を通じてレオ・ロウサム英語版、トミー・レック (Tommy Reck) 、トミー・ポッツ英語版といったダブリンのミュージシャンと知り合っていった[3]

1959年にショーン・オリアダ (Seán Ó Riada) のバンド、キョールトリ・クーラン英語版の創設に参加した[5]

1960年代にはキャッスル・ケーリー・バンド (The Castle Ceilí Band) に参加しており、1965年フラー・キョールのケーリーバンド・シニア部門優勝時のメンバの一員である[1]

1960年代中頃から1980年代まで、ジョンは同じクレア州出身の友人であるフィドル奏者ジョー・ライアン (Joe Ryan) と共にダブリン市内メリオン・ロー (Merrion Row) のパブ、オドノヒューズ (O' Donoghues) にて、毎週金曜土曜の夜にセッションを行った。このセッションには、ウィリー・クランシー英語版、ボビー・ケイシー (Bobby Casey) 、デニス・マーフィー()、フェリックス・ドラン (Felix Doran) を始めとして、大変多くのミュージシャンが参加していた[1]

1971年、ショーン・オリアダの死を受けてエイモン・デ・バトラー英語版がキョールトリ・クーランの後継として結成したバンド、Ceoltóirí Laighean[6]にも参加している。

1973年に初めて開かれたウィリー・クランシー・サマー・スクールでは、フィドル・クラスの教師を担当している[1]

1975年に、トピック・レコード英語版からソロ・アルバムをリリース、現在まで多くのミュージシャンに影響を与えている。

家族

母エリザベスはコンサーティーナを演奏し、いくつかのtuneにもその名を残す[7]

エリザベスの母メアリー・ブレナン(Mary Brennan、1855年 - 1928年)の出身地であるシャノン湾英語版の小島カハー島英語版(Scattery island、1969年以降は無人島)は、ケリー家の音楽にとっても重要な存在である。往時のカハー島は、海上であるがゆえクレア州ながらも交流のあるケリー州ノルウェーといった他の土地との影響を受けており、また伝統音楽も盛んだった。なお、メアリーもホーンパイプ「Mary Brennan’s Favourite」に名を残している[8]

ジョンの子供たちは全員ミュージシャンである[1]。1976年、息子のうちジョン・ジュニア (John Jnr.) とジェームズ(James、1957年生)の兄弟はフィドル・デュオのアルバム「John and James Kelly: Irish Traditional Fiddle Music」をタラ・ミュージック英語版からリリースしている[9]。また、翌1977年には、RTÉの番組『FONN』での親子3人のトリプル・フィドルの演奏が残されている[10]

ジェームズは1984年にマイアミへ移住したが[11]、以降もアイルランドを頻繁に訪れている。1988年にはRTÉの音楽番組『Pure Drop』の司会を務めている[12]。2006年にはアイルランド語のTV局TG4の 'グラダム・キョール (Gradam Ceoil) TG4' にてミュージシャン・オヴ・ジ・イヤー (Musician of the Year) を受賞した[13]

ディスコグラフィー

  • John Kelly – Fiddle and Concertina Player (1975年、トピック・レコード) [14]

脚注

  1. ^ a b c d e f John Kelly Capel Street”. Aoife Kelly. 25 January 2020閲覧。
  2. ^ Clare People John Kelly (1912-1989) by Barry Taylor”. 25 January 2020閲覧。
  3. ^ a b c d Fleadh Cheoil na hÉireann Inis 2017 - John Kelly”. 25 January 2020閲覧。
  4. ^ Comhaltas: Blog History of the Piper’s Club”. 25 January 2020閲覧。
  5. ^ Ceoltóirí Chualann ディスコグラフィー Discogs”. 25 January 2020閲覧。
  6. ^ Ceoltóirí Laighean ディスコグラフィー Discogs”. 25 January 2020閲覧。
  7. ^ Elizabeth Kelly's Delight (1) Traditional Tune Archive”. 25 January 2020閲覧。
  8. ^ Mary Brennan’s Favourite John Kelly Capel Street”. 25 January 2020閲覧。
  9. ^ Release “Irish Traditional Fiddle Music” by John and James Kelly with Michael Crehan and Michael Gavin - MusicBrainz”. 25 January 2020閲覧。
  10. ^ West Clare Fiddle Playing You Tube”. clarebannerman. 25 January 2020閲覧。
  11. ^ James Kelly - HistoryMiamiMuseum”. 25 January 2020閲覧。
  12. ^ James Kelly - The Irish Tune Composer’s Page”. 25 January 2020閲覧。
  13. ^ TG4 Musician of the Year Previous Winners Gradam Ceoil”. 25 January 2020閲覧。
  14. ^ John Kelly – Fiddle and Concertina Player - Topic”. 25 January 2020閲覧。

外部リンク