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「ウィリアム・グリムストン (初代グリムストン子爵)」の版間の差分

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[[ウィリアム・ラッキン (第3代準男爵)|第3代準男爵サー・ウィリアム・ラッキン]]とメアリー・シェリントン({{lang|en|Mary Sherington}}、メアリー・シェリントンの娘)の息子として生まれ<ref name="Cokayne">{{Cite book2|editor-last=Cokayne|editor-first=George Edward|editor-link=ジョージ・エドワード・コケイン|year=1892|title=Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (G to K)|volume=4|edition=1st|location=London|publisher=George Bell & Sons|language=en|pages=118–119|url=https://archive.org/details/completepeerage02cokagoog/page/n131}}</ref>、1684年12月31日に洗礼を受けた<ref name="HOP">{{HistoryofParliament|1690|url=https://www.historyofparliamentonline.org/volume/1690-1715/member/grimston-william-1684-1756|title=GRIMSTON (formerly LUCKYN), William (1684-1756), of Gorhambury, Herts.|last=Knights|first=Mark|access-date=21 August 2020}}</ref>。1700年10月に遠戚にあたる{{仮リンク|サミュエル・グリムストン (第3代準男爵)|en|Sir Samuel Grimston, 3rd Baronet|label=第3代準男爵サー・サミュエル・グリムストン}}が死去すると、{{仮リンク|オールド・ゴーハムベリー・ハウス|en|Old Gorhambury House|label=ゴーハムベリー}}など多くの領地を継承して、姓を「グリムストン」に改めた<ref name="Cokayne" />。グリムストンの遺産を継承する条件が「グリムストン姓を名乗る」のほかにも「グリムストンの孫娘アンに毎年1,000ポンド(最大30年まで)を支払う」があったため、グリムストンは遺産継承を躊躇したが、兄[[ハーボトル・ラッキン (第4代準男爵)|ハーボトル]]の説得を受けて遺産継承に踏み切った<ref name="HOP" />。
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その後、マールバラ公爵夫人との不和により[[1722年イギリス総選挙]]で[[ウィリアム・クレイトン (初代サンドン男爵)|ウィリアム・クレイトン]]に敗れたが、2人は和解して、グリムストンは[[1727年イギリス総選挙]]で議員に返り咲いた<ref name="HOP" />。しかし、グリムストンがサラの孫にあたる{{仮リンク|ジョン・スペンサー (イギリスの政治家)|en|John Spencer (British politician)|label=ジョン・スペンサー閣下}}への支持を拒否したため[[1734年イギリス総選挙]]で再び敗北、[[1741年イギリス総選挙]]では立候補しなかったが{{仮リンク|ジェームズ・ウェスト (古物収集家)|en|James West (antiquary)|label=ジェームズ・ウェスト}}を支持、スペンサーのセント・オールバンズ選挙区における当選を妨害した<ref name="HOP2">{{HistoryofParliament|1715|url=https://www.historyofparliamentonline.org/volume/1715-1754/member/grimston-william-1683-1756|title=GRIMSTON, William (c.1683-1756), of Gorhambury, nr. St. Albans, Herts.|last=Sedgwick|first=Romney R.|author-link=ロムニー・セジウィック|access-date=21 August 2020}}</ref>。サラは報復として、1743年にセント・オールバンズ選挙区で行われた補欠選挙において{{仮リンク|ハンス・スタンリー|en|Hans Stanley}}を支持、グリムストンの息子[[ジェームズ・グリムストン (第2代グリムストン子爵)|ジェームズ]]を落選させた<ref name="HOP2" />。サラは1746年に死去、ジェームズは[[1754年イギリス総選挙]]でようやく当選を果たした<ref name="HOP2" />。
その後、マールバラ公爵夫人との不和により[[1722年イギリス総選挙]]で[[ウィリアム・クレイトン (初代サンドン男爵)|ウィリアム・クレイトン]]に敗れたが、2人は和解して、グリムストンは[[1727年イギリス総選挙]]で議員に返り咲いた<ref name="HOP" />。しかし、グリムストンがサラの孫にあたる{{仮リンク|ジョン・スペンサー (イギリスの政治家)|en|John Spencer (British politician)|label=ジョン・スペンサー閣下}}への支持を拒否したため[[1734年イギリス総選挙]]で再び敗北、[[1741年イギリス総選挙]]では立候補しなかったが{{仮リンク|ジェームズ・ウェスト (古物収集家)|en|James West (antiquary)|label=ジェームズ・ウェスト}}を支持、スペンサーのセント・オールバンズ選挙区における当選を妨害した<ref name="HOP2">{{HistoryofParliament|1715|url=https://www.historyofparliamentonline.org/volume/1715-1754/member/grimston-william-1683-1756|title=GRIMSTON, William (c.1683-1756), of Gorhambury, nr. St. Albans, Herts.|last=Sedgwick|first=Romney R.|author-link=ロムニー・セジウィック|access-date=21 August 2020}}</ref>。サラは報復として、1743年にセント・オールバンズ選挙区で行われた補欠選挙において{{仮リンク|ハンス・スタンリー|en|Hans Stanley}}を支持、グリムストンの息子[[ジェームズ・グリムストン (第2代グリムストン子爵)|ジェームズ]]を落選させた<ref name="HOP2" />。サラは1746年に死去、ジェームズは[[1754年イギリス総選挙]]でようやく当選を果たした<ref name="HOP2" />。

2020年8月30日 (日) 22:18時点における版

初代グリムストン子爵ウィリアム・グリムストン英語: William Grimston, 1st Viscount Grimston、出生名ウィリアム・ラッキンWilliam Luckyn)、1684年12月31日洗礼 – 1756年10月15日)は、グレートブリテン王国の政治家、アイルランド貴族

生涯

第3代準男爵サー・ウィリアム・ラッキンとメアリー・シェリントン(Mary Sherington、メアリー・シェリントンの娘)の息子として生まれ[1]、1684年12月31日に洗礼を受けた[2]。1700年10月に遠戚にあたる第3代準男爵サー・サミュエル・グリムストン英語版が死去すると、ゴーハムベリー英語版など多くの領地を継承して、姓を「グリムストン」に改めた[1]。グリムストンの遺産を継承する条件が「グリムストン姓を名乗る」のほかにも「グリムストンの孫娘アンに毎年1,000ポンド(最大30年まで)を支払う」があったため、グリムストンは遺産継承を躊躇したが、兄ハーボトルの説得を受けて遺産継承に踏み切った[2]

1710年イギリス総選挙セント・オールバンズ選挙区英語版から出馬して当選、議会ではホイッグ党側で投票し、1711年12月には「スペインなくして講和なし」の動議に賛成票を投じた[2]1713年イギリス総選挙ではマールバラ公爵夫人サラ・ジェニングスの支持もあって再選、1714年にリチャード・スティール英語版庶民院追放に反対票を投じた[2]。1719年11月29日、アイルランド貴族であるグリムストン子爵ミーズ県におけるダンボイン男爵に叙され、1720年7月15日にアイルランド貴族院議員に就任した[1]

その後、マールバラ公爵夫人との不和により1722年イギリス総選挙ウィリアム・クレイトンに敗れたが、2人は和解して、グリムストンは1727年イギリス総選挙で議員に返り咲いた[2]。しかし、グリムストンがサラの孫にあたるジョン・スペンサー閣下英語版への支持を拒否したため1734年イギリス総選挙で再び敗北、1741年イギリス総選挙では立候補しなかったがジェームズ・ウェスト英語版を支持、スペンサーのセント・オールバンズ選挙区における当選を妨害した[3]。サラは報復として、1743年にセント・オールバンズ選挙区で行われた補欠選挙においてハンス・スタンリー英語版を支持、グリムストンの息子ジェームズを落選させた[3]。サラは1746年に死去、ジェームズは1754年イギリス総選挙でようやく当選を果たした[3]

1737年2月4日に兄ハーボトルが死去すると、準男爵位を継承した[2]

1756年10月19日に死去、28日にセント・オールバンズの聖マイケル教会英語版に埋葬された[1]。息子ジェームズが爵位を継承した[1]

劇作

1705年にThe Lawyer's Fortune, or Love in a Hollow Treeと題する劇作を出版したが、ジョナサン・スウィフト(1733年)やアレキサンダー・ポープ(1734年)など同時代の文人の笑い種になった[4][5]。グリムストンは後に劇作の第2版を出版したが、やがてその劇作を流通から消そうとして、出回っているコピーを全て購入することを試みた[5]

1736年にグリムストンの劇作が再出版されたが、これはグリムストン自身ではなく政敵のサラ・ジェニングスによる出版であるとされる[5]

家族

1706年8月14日、ジーン・クック(Jean Cooke、1765年3月12日没、ジェームズ・クックの娘[1])と結婚、10男3女をもうけた[3]

  • サミュエル(1707年12月 – 1737年6月) - 1730年11月5日、メアリー・ラヴェル(Mary Lovell、1764年9月24日没[6]、ヘンリー・ラヴェルの娘)と結婚[7]
  • ジェームズ(1711年 – 1773年) - 第2代グリムストン子爵
  • ハーボトル(Harbottle[7]

出典

  1. ^ a b c d e f Cokayne, George Edward, ed. (1892). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (G to K) (英語). Vol. 4 (1st ed.). London: George Bell & Sons. pp. 118–119.
  2. ^ a b c d e f Knights, Mark (2002). "GRIMSTON (formerly LUCKYN), William (1684-1756), of Gorhambury, Herts.". In Hayton, David; Cruickshanks, Eveline; Handley, Stuart (eds.). The House of Commons 1690-1715 (英語). The History of Parliament Trust. 2020年8月21日閲覧
  3. ^ a b c d Sedgwick, Romney R. (1970). "GRIMSTON, William (c.1683-1756), of Gorhambury, nr. St. Albans, Herts.". In Sedgwick, Romney (ed.). The House of Commons 1715-1754 (英語). The History of Parliament Trust. 2020年8月21日閲覧
  4. ^ Vian, Alsager Richard (1890). "Grimston, William Luckyn" . In Stephen, Leslie; Lee, Sidney (eds.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 23. London: Smith, Elder & Co. pp. 260–261.
  5. ^ a b c Carter, Philip (23 September 2004). "Grimston, William Luckyn, first Viscount Grimston". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/11643 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
  6. ^ Cokayne, George Edward; Gibbs, Vicary, eds. (1910). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Ab-Adam to Basing) (英語). Vol. 1 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. p. 433.
  7. ^ a b Burke's Peerage, Baronetage and Knightage (英語) (99th ed.). London: Burke's Peerage Limited. 1949. p. 2044.

外部リンク

グレートブリテン議会英語版
先代
ジョン・ゲイプ
ジョシュア・ロマックス
庶民院議員(セント・オールバンズ選挙区英語版選出)
1710年1722年
同職:ジョン・ゲイプ 1710年 – 1713年
ウィリアム・ヘイル 1713年 – 1714年
ジョン・ゲイプ 1714年 – 1715年
ウィリアム・ヘイル 1715年 – 1717年
ジョシュア・ロマックス 1717年 – 1722年
次代
ウィリアム・ゴア英語版
ウィリアム・クレイトン
先代
ウィリアム・ゴア英語版
ウィリアム・クレイトン
庶民院議員(セント・オールバンズ選挙区英語版選出)
1727年1734年
同職:カレブ・ロマックス英語版 1727年 – 1730年
トマス・ゲイプ英語版 1730年 – 1732年
ジョン・メリル英語版 1733年 – 1734年
次代
サー・トマス・アストン準男爵英語版
トマス・アシュビー
アイルランドの爵位
爵位創設 グリムストン子爵
1719年 – 1756年
次代
ジェームズ・グリムストン
イングランドの準男爵
先代
ハーボトル・ラッキン
(リトル・ウォルサムの)準男爵
1737年 – 1756年
次代
ジェームズ・グリムストン