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「ヘンリー・フラッド」の版間の差分

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== 評価 ==
== 評価 ==

2020年8月30日 (日) 22:04時点における版

バーソロミュー・ストッカー(Bartholomew Stoker)による肖像画。

ヘンリー・フラッド英語: Henry Flood PC PC (Ire)1732年1791年12月1日)は、アイルランド王国の政治家。アイルランド王座裁判所主席裁判官英語版ウォーデン・フラッドの非嫡出子であり[1]ヘンリー・グラタン英語版とともにアイルランド愛国党英語版の指導者を務めた。アイルランド庶民院議員を30年ほど務めたほか、1780年代にはグレートブリテン庶民院議員も務めた。

生涯

初期の経歴

アイルランド王座裁判所主席裁判官英語版ウォーデン・フラッドとホワイトサイド氏(Miss Whiteside)の非嫡出子として、1732年に生まれた[1][2](両親は後に結婚している[2])。1747年から1750年までダブリン大学トリニティ・カレッジで教育を受けた後[1]、1751年1月19日にインナー・テンプルに入学した[3]。また、1750年12月1日にオックスフォード大学クライスト・チャーチに入学、1752年12月12日にM.A.の学位を修得した[3]。裕福な家族に生まれた上、影響力の大きいベレスフォード家の娘と結婚して多くの財産を手に入れたという[4]

政界入り

1759年にアイルランドに帰国してキルケニー・カウンティ選挙区英語版選出のアイルランド庶民院議員に当選した[1]。翌年に国王ジョージ2世が死去すると解散総選挙になり、フラッドはカラン選挙区英語版の候補者ジェームズ・アガーの当選無効が宣告されると、その補欠選挙で当選した[1]

この時代、アイルランド庶民院は憲法上グレートブリテン枢密院の下にあり、独立した立法権がなく、官僚の任命もロンドン政府に掌握されていた[4]。また、アイルランド庶民院には国政政党といえる組織がなく、政府に反対するという意味の「野党」も数年前にようやく成立した程度だったが[4]、フラッドは議員就任してすぐ野党に加わり(ただし、記録上の処女演説は1763年10月12日に行われた)、議会における精力的な活動によりアイルランド庶民院における野党が形成されていった[1]。フラッドの主張した改革は議会会期の短縮(この時代、アイルランド議会の会期は君主の死に伴う解散総選挙以外は特に定められていなかった[4])、アイルランドに重くのしかかっている年金支払いの軽減、アイルランド民兵隊の設立、アイルランド議会の独立立法権の承認という4点だったが[4]、これらの主張はそれまでいずれも議会か枢密院で否決されている[1]。そのためか、1760年に即位したジョージ3世の治世初期のアイルランド政界には大きな事件がなく、フラッドは1767年にはグレートブリテン庶民院議員への選出を求めたが失敗に終わっている[1]

タウンゼンド子爵との闘争

1767年10月、第4代タウンゼンド子爵ジョージ・タウンゼンドアイルランド総督に就任した[1]。アイルランド総督の代替わりに伴い政府の態度が変わり[1]、人気取りの一環として八年議会法(Octennial Act、議会の会期を最大8年に制限する法)の可決を許した[4]。これにより、総選挙の回数が増え、アイルランド庶民院の構成がある程度世論を反映するようになった[4]。しかし、それまで選挙区を掌握していた支配層は脅威を感じ、以前は敵対したフラッドに一時的に接近するようになり、1768年にロンドン政府がアイルランド議会の憲法上の地位(グレートブリテン枢密院の下という従属的な地位)を再確認しようとしたときはそれを拒否した[4]。そして、1768年5月に議会が解散され総選挙が行われることになり、フラッドはカラン選挙区とロングフォード・バラ選挙区英語版で当選したが引き続きカラン選挙区の代表として続投した(また、カラン選挙区での選挙をめぐってジェームズ・アガー(James Agar)と決闘を行うことになり、結果的にはフラッドがアガーに致命傷を与えた[1])。議会が開会する前、タウンゼンド子爵はフラッドに官職を与えて味方につけようと本国に強く求めたが聞き入れられず、結局1769年2月に議会が開会すると[1]、グレートブリテン枢密院から送られてきた金銭法案は「アイルランド議会で提出された法案ではない」という理由で否決された[4]。ロンドン政府は1769年12月26日に突如アイルランド議会を閉会して[1]、14か月間かけて大々的に買収を行うことで対応しようとしたが[4]、フラッドも常に政府に反対するようになり、またタウンゼンド子爵の召還を目指すようになった[1]。1771年2月に議会が開会すると、またしても金銭法案がフラッドの動議により否決され、タウンゼンド子爵は翌年にロンドンに召還された[4]。フラッド、ハーキュリーズ・ラングリッシュ英語版ヘンリー・グラタン英語版らによる、この時期の政治に関する文章は後に『バラタリアナ』(Baratariana)として出版された[1][4]。議会闘争でアイルランド総督を撃退したことにより、フラッドは大きな名声を得た[4]

与党の一員として

タウンゼンド子爵の後任である初代ハーコート伯爵サイモン・ハーコートはより自由主義的な政策を採用した[1]。フラッドは今度は野党活動をとりやめ、不在地主(absentee landlord)への課税案を支持したが、この法案は結局否決された[1]。ハーコート伯爵は野党の大反発を防ぐにはなんとしてもフラッドの歓心を買わなければならないと考えてフラッドと交渉を重ね、ついには1775年10月にアイルランド副大蔵卿(Vice-treasurer of Ireland、毎年3,500ポンドの収入が得られる閑職)への就任を同意させることに成功した[1][4](同時にグレートブリテン枢密院アイルランド枢密院英語版の枢密顧問官に任命された[4][3])。その後、1776年の総選挙においてフラッドの当選無効を宣告されたが、エニスキレン選挙区英語版の補欠選挙で当選して議席を取り戻した[1]

改革以前の庶民院英語版で野党として戦うより閣僚を務めるほうが政策を推進できると考えた可能性もあったが、結果的にはフラッドは官職就任に同意したことで影響力を失い、アイルランド愛国党英語版の指導者という地位はヘンリー・グラタン英語版に譲ることとなった[4]。フラッドは首相ノース卿の対アメリカ政策を支持したことで人気を落とし[4]、特にフラッドの在任中にアイルランドからの輸出が2年間禁止されたことと、アイルランド兵4,000人がアメリカ独立戦争に派遣されたことが不人気であった[1]

1778年にフランスがアメリカ側で参戦したことがフラッドにとっての転機となった[4]。フランスの参戦により、アイルランドはフランスからの侵攻という脅威に晒されることになり、しかもイギリス本国は守備軍を提供できなかったため、アイルランドの守備はアイルランド義勇兵英語版に頼ることとなった[4]。アイルランド義勇兵には数週間で4万人以上が集まり、フラッドも大佐として義勇兵に参加した[4]

アイルランド義勇兵は最初は本土防衛のみを目的としたが、やがて貿易制限の撤廃を要求するようになり、フラッドも1779年に議会で演説して植民地との自由貿易を支持した[1][4]。植民地との自由貿易は同年中に達成されたが、フラッドの演説は政府の立場に反するものであり、アイルランド総督第5代カーライル伯爵フレデリック・ハワードの要求によりフラッドは1781年秋に副大蔵卿と枢密顧問官を罷免された[1][4]

人気の凋落と死去

野党に戻ったフラッドだったが、野党の主導権はすでにグラタンの手にあり、フラッドはポイニングス法英語版廃止法案を支持する演説で「この議題を20年間も研究した後、議題がわたしの手元から奪われた」とぐちを漏らした[1]。これに対し、廃止法案を提出したバリー・イェルヴァートンはフラッドの与党入りを離婚に例え、「結婚し、一緒に住んでいる夫婦の場合、妻を夫から奪うことは犯罪である。しかし、夫が妻と別居し、妻を7年間も見捨てた場合、ほかの人は妻を連れていって保護することができる」と反論した[1]。その後、アイルランド議会の立法権をめぐるグラタンの動議を支持したものの、権利放棄法英語版をめぐる論争[注釈 1]でグラタンと決裂した[1]。一方でアイルランド総督ポートランド公爵(カーライル伯爵の後任)がフラッドを再び枢密顧問官に任命するという誤報が届いたとき、フラッドは即座に就任を拒否した[1]。また、1783年11月と1784年3月の2度にわたって議会改革法案を提出したがいずれも否決されている[1]。1783年11月の提出にあたって事前に義勇兵団体(Volunteer Corporation)と相談していたが、アイルランド議会はこれを外圧と考えて抵抗、結局義勇兵団体は解散に追い込まれた[1]

1783年10月[2]第3代シャンドス公爵ジェイムズ・ブリッジスから購入した形でウィンチェスター選挙区英語版の議席を得て、グレートブリテン庶民院議員に就任した[4]。フラッドは1783年12月8日の処女演説でチャールズ・ジェームズ・フォックスの東インド法案に反対したが、ホイッグ党にもトーリー党にもつかない立場であり、また両党の議員から演説を酷評された[2]1784年イギリス総選挙でウィンチェスター選挙区の議席を失ったが、1785年3月にシーフォード選挙区英語版の補欠選挙に出馬、選挙無効と申し立てを経て1786年4月に当選が宣告された[2]。その後、1787年2月にフランスとの通商条約に反対し、1790年3月に議会改革法案を提出した[2]。この改革法案はフォックスとエドマンド・バークから賞賛され、フラッドが名誉をある程度挽回する形となったが[4]、首相小ピットが改革を支持せず、結局休会動議が可決されたため改革法案も流れた[2]

1790年イギリス総選挙ではグレートブリテンでもアイルランドでも議席が得られず、フラッドはキルケニー県ファームリー(Farmley)にある邸宅に引退した[4]。以降そこで余生を送り、1791年12月2日に死去した[4]

評価

ピーター・バーロウズ英語版など同時代の人物は総じてフラッドの能力を高く評価したが、ブリタニカ百科事典第11版はフラッドの演説者としての能力がヘンリー・グラタン英語版より下と評している[4]。グラタンはフラッドと決裂した後もフラッドを尊敬しており、ジェレミー・ベンサムはグラタンなどアイルランド愛国党英語版の議員が義勇兵団体の維持をめぐってフラッドを支持していたら、フラッドの議会改革法案の結果も変わっただろうという意見をもった[4]

家族

1762年4月13日、フランシス・マリア・ベレスフォード(Frances Maria Beresford、1815年没、初代タイローン伯爵マーカス・ベレスフォード英語版の娘)と結婚した[5]。2人の間に子供はいなかった[1]

注釈

  1. ^ アイルランド議会の独立した立法権を確立することは、1719年宣言法英語版を廃止するだけで十分なのか、それともアイルランドの立法権の放棄を宣言する法律を制定する必要があるか、という論争であり、フラッドは後者を支持し、アイルランド義勇兵も後者を支持したが、グラタンは同意しなかった[1]

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad Barker, George Fisher Russell (1889). "Flood, Henry" . In Stephen, Leslie (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 19. London: Smith, Elder & Co. pp. 331–335.
  2. ^ a b c d e f g Drummond, Mary M. (1964). "FLOOD, Henry (1732-91), of Farmley, co. Kilkenny.". In Namier, Sir Lewis; Brooke, John (eds.). The House of Commons 1754-1790 (英語). The History of Parliament Trust. 2020年3月22日閲覧
  3. ^ a b c Foster, Joseph, ed. (1891). Alumni Oxonienses 1715-1886 (英語). Vol. 2. Oxford: University of Oxford. p. 701.
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab McNeill, Ronald John (1911). "Flood, Henry" . In Chisholm, Hugh (ed.). Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 10 (11th ed.). Cambridge University Press. pp. 525–526.
  5. ^ "Tyrone, Earl of (I, 1746)". Cracroft's Peerage (英語). 2020年3月22日閲覧
アイルランド議会
先代
ダンキャノン子爵英語版
パトリック・ウィームズ
庶民院議員(キルケニー・カウンティ選挙区英語版選出)
1759年 – 1761年
同職:パトリック・ウィームズ
次代
ジョン・ポンソンビー
ジェームズ・アガー
先代
ジェームズ・アガー
パトリック・ウィームズ
庶民院議員(カラン選挙区英語版選出)
1762年 – 1776年
同職:ジェームズ・ウィームズ 1762年 – 1765年
ジョスリン・フラッド 1765年 – 1767年
ジョン・フラッド 1767年 – 1776年
ハーキュリーズ・ラングリッシュ英語版 1776年
次代
ピアース・バトラー
ジョージ・アガー
先代
サー・トマス・ニューコメン準男爵
ジョセフ・ヘンリー
庶民院議員(ロングフォード・バラ選挙区英語版選出)
1768年 – 1769年
同職:デイヴィッド・ラ・トゥッシュ
次代
ウォーデン・フラッド
デイヴィッド・ラ・トゥッシュ
先代
サー・アーチボルド・アチソン準男爵
ジョン・リー
庶民院議員(エニスキレン選挙区英語版選出)
1777年 – 1783年
同職:ジョン・リー
次代
サー・ジョン・ブラキエール準男爵英語版
ジョン・マックリントック
先代
サー・リチャード・ジョンストン準男爵
チャールズ・ランバート
庶民院議員(キルベッガン選挙区英語版選出)
1783年 – 1790年
同職:ジョン・フィルポット・クラン英語版
次代
トマス・バーグ
ウィリアム・シャーロック
グレートブリテン議会英語版
先代
ヘンリー・ペントン英語版
ラヴェル・スタンホープ英語版
庶民院議員(ウィンチェスター選挙区英語版選出)
1783年 – 1784年
同職:ヘンリー・ペントン英語版
次代
ヘンリー・ペントン英語版
リチャード・グレイス・ガモン
先代
サー・ジョン・ヘンダーソン準男爵英語版
サー・ピーター・パーカー準男爵英語版
庶民院議員(シーフォード選挙区英語版選出)
1786年 – 1790年
同職:サー・ゴドフリー・ウェブスター準男爵英語版
次代
ジョン・サージェント英語版
リチャード・ポール・ジョドレル英語版
公職
先代
チャールズ・ジェンキンソン英語版
ニュージェント伯爵
アイルランド副大蔵卿英語版
1775年 – 1781年
同職:ニュージェント伯爵
次代
シャノン伯爵
ニュージェント伯爵