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先代の{{lang|ko|祇摩尼師今}}が後継ぎを儲けないままに134年8月に死去したため、逸聖が王位を継いだ。[[137年]]及び[[139年]]に[[靺鞨]]の侵入を受け、長嶺([[咸鏡南道]][[金野郡|永興郡]])<ref>長嶺は複数の場所と見られる普通名詞的な用いられ方をされており、少なくとも靺鞨対応のための長嶺(咸鏡南道)と『三国史記』新羅本紀・[[ |
先代の{{lang|ko|祇摩尼師今}}が後継ぎを儲けないままに134年8月に死去したため、逸聖が王位を継いだ。[[137年]]及び[[139年]]に[[靺鞨]]の侵入を受け、長嶺([[咸鏡南道]][[金野郡|永興郡]])<ref>長嶺は複数の場所と見られる普通名詞的な用いられ方をされており、少なくとも靺鞨対応のための長嶺(咸鏡南道)と『三国史記』新羅本紀・[[炤知麻立干]]15年(493年)7月条に見られる[[倭人]]対応のための長嶺([[金海市]]付近)の二箇所以上があったと考えられている。(→井上訳注1980)</ref>が略奪された。このため[[140年]]には長嶺に柵を立てて靺鞨の侵入を防ごうとするとともに、[[142年]]には靺鞨征伐を試みたが、臣下の進言により征伐は中止となった。 |
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国内では、[[144年]]2月に農業が政の根本であるとして水利の修繕とともに農地開拓を勧める布令を発し、あわせて民間での金銀珠玉の使用を禁止するという倹約の布令を発した。また、[[147年]]7月には智勇兼備の優れた人物を推挙することを群臣に命じた。 |
国内では、[[144年]]2月に農業が政の根本であるとして水利の修繕とともに農地開拓を勧める布令を発し、あわせて民間での金銀珠玉の使用を禁止するという倹約の布令を発した。また、[[147年]]7月には智勇兼備の優れた人物を推挙することを群臣に命じた。 |
2020年8月28日 (金) 21:46時点における最新版
逸聖尼師今 | |
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第7代国王 | |
在位期間 | 134年 - 154年 |
生年 | 不詳 |
没年 | 154年2月 |
父 | 儒理尼師今 |
母 | 日知葛文王の娘 |
逸聖尼師今 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 일성 이사금 |
漢字: | 逸聖尼師今 |
発音: | イルソン・イサグム |
日本語読み: | いつせい・にしきん |
ローマ字: | Ilseong Isageum |
逸聖尼師今(いつせい にしきん、生年不詳 - 154年2月)は、新羅の第7代の王(在位:134年 - 154年)。第3代儒理尼師今の長男であり、姓は朴。『三国史記』新羅本紀・逸聖尼師今紀には分注で日知葛文王の子とも記され、『三国遺事』王暦では弩礼尼師今(儒理尼師今)の兄の子、あるいは先代の祇摩尼師今の子とする。
治世
[編集]先代の祇摩尼師今が後継ぎを儲けないままに134年8月に死去したため、逸聖が王位を継いだ。137年及び139年に靺鞨の侵入を受け、長嶺(咸鏡南道永興郡)[1]が略奪された。このため140年には長嶺に柵を立てて靺鞨の侵入を防ごうとするとともに、142年には靺鞨征伐を試みたが、臣下の進言により征伐は中止となった。
国内では、144年2月に農業が政の根本であるとして水利の修繕とともに農地開拓を勧める布令を発し、あわせて民間での金銀珠玉の使用を禁止するという倹約の布令を発した。また、147年7月には智勇兼備の優れた人物を推挙することを群臣に命じた。
154年2月、在位21年にして死去した。埋葬地は不明。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 金富軾撰、井上秀雄訳注『三国史記』第1巻、平凡社〈東洋文庫372〉、1980年 ISBN 4-582-80372-5
- 一然撰、金思燁訳『完訳 三国遺事』明石書店、1997年 ISBN 4750309923(原著『完訳 三国遺事』六興出版、1980年)