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[[建衡]]元年([[269年]])、呉は[[虞シ|虞汜]]を監軍、[[薛ク|薛珝]]を威南将軍・大都督、陶璜を[[蒼梧郡|蒼梧]][[太守]]に任命した上で、再度交州奪還のため派兵した。陶璜らは[[荊州]]を経由し、[[建安郡]]を経由した監軍の[[李勗]]、督軍の[[徐存]]らと[[合浦郡|合浦]]で落ち合う予定だった。ところが翌年([[270年]])、李勗は道案内の[[馮斐]]の道程が通行に不利だとして馮斐を殺し、勝手に撤兵してしまった。このため李勗・徐存が家族ともども軍令違反で誅殺されてしまい、陶璜らは単独での戦闘を余儀なくされた。 |
2020年8月28日 (金) 21:37時点における版
陶 璜(とう こう、? - 290年?[1])は、中国三国時代の呉から西晋にかけての武将。字は世英。揚州丹陽郡秣陵県の人。父は陶基。弟は陶濬・陶抗。子は陶融・陶威・陶淑。孫は陶綏。甥は陶湮・陶猷・陶回。『晋書』57巻に伝がある。
生涯
父と同じく呉に仕え、順調に出世した。
宝鼎3年(268年)11月、孫休の跡を継ぎ即位した孫晧は、大都督の修則や交州刺史の劉俊らを交州奪還に派兵したが、修則・劉俊が戦死し西晋の楊稷・毛炅らに撃退された。
建衡元年(269年)、呉は虞汜を監軍、薛珝を威南将軍・大都督、陶璜を蒼梧太守に任命した上で、再度交州奪還のため派兵した。陶璜らは荊州を経由し、建安郡を経由した監軍の李勗、督軍の徐存らと合浦で落ち合う予定だった。ところが翌年(270年)、李勗は道案内の馮斐の道程が通行に不利だとして馮斐を殺し、勝手に撤兵してしまった。このため李勗・徐存が家族ともども軍令違反で誅殺されてしまい、陶璜らは単独での戦闘を余儀なくされた。
虞汜・陶璜らの呉軍は、分水で楊稷らの西晋軍と戦ったが敗北し、合浦に退却した。薛珝は怒り、陶璜に対し「お前は自分から賊を討つと上表したのに、二人の将を失った。その責任はどこにあるのか」と追及した。陶璜が「私が思ったことが実行できず、また諸軍も互いに従わなかった。だから敗戦に至ったに過ぎない」と主張したので、薛珝はさらに怒りそのまま撤兵しようとした。しかし陶璜は数百の兵で西晋の九真太守であった董元の陣に夜襲を仕掛け、宝物を略奪して帰還してきた。このため戦果を見た薛珝は陶璜に謝り、前部督に任じて交州を治めさせた。
陶璜は正面からの戦いでは状況が悪いとみて、交阯郡の手前から海路で迂回し、直接九真郡を攻撃する作戦を立てた。董元が伏兵を仕掛け、偽装退却で呉軍を引きずり込もうとしたが、陶璜はあらかじめ長戟の兵を伏兵対策に控えて置いていたため、董元を破ることに成功した。さらに、事前に用意してあった絹数千匹を、扶厳の賊の頭目であった梁奇に与え、梁奇に一万余の軍勢で助けさせた。当時、董元配下の解系[2]という者が勇将として知られていたが、弟の解象は呉に従っていた。そこで、陶璜は解象をこれ見よがしに傍へ侍らせ、董元の疑心暗鬼を煽り解系を殺害させた。陶璜は見事、九真郡の奪還に成功した。
同じ頃、滕脩が南岸の賊に苦戦していたので、陶璜は「南岸の連中は我々の塩と鉄を頼りにしている。(だから)断じて市場に出してはならない。そうすれば、(武器を)壊して農機具に充てざるを得なくなる。2年もしてから一戦すれば容易に滅ぼすことができるだろう」といった。滕脩は陶璜に従い、ついに賊を破った。その頃ちょうど虞汜が死去したため、陶璜は後任の交州刺史に任命された。
さらに翌年(271年)、陶璜率いる呉軍は楊稷・毛炅らの籠もる城を包囲した。既に霍弋は死去しており、西晋軍に援軍のあては無かった。霍弋は事前に楊稷・毛炅らと、百日以内に降伏したら一家をもろとも処刑することと、百日守った上での降伏なら自分が罪を引き受けることを誓約していた。果たして、百日も経たずに西晋軍の兵糧が尽きたため、彼らは降伏を願い出た。陶璜は霍弋と彼らの誓約を聞き及んでいたので、敢えて降伏を許さず、残りの日数分の兵糧を守備側に提供して籠城を続けさせた。配下の者たちが止めるよう諌めたが、陶璜は楊稷・毛炅らの家族を助命させることで、内外に呉の徳を宣伝しようとした。百日後、予定通り楊稷らは降伏した[3]。
修則の子の修允は、父が毛炅に処刑されていたために仇討ちを望んだ。しかし陶璜は、毛炅の勇名を惜しみ助命するつもりであったので、これを許さなかった。ところが、毛炅には降伏するつもりは無く、陶璜を襲撃しようとしていたことが発覚した。陶璜が毛炅を捕らえ「晋の賊め」と責めると、毛炅は「呉の狗め。何が賊だ」と言い返した。腹を立てた者が生きたまま毛炅の腹を割くと、修允は臓を取り出して「これでもまだ賊が働けるというのか」といった。毛炅はなおも「吾の目的は汝らの孫晧を殺すことだ。汝の父など過去に死んだ狗ではないか」と罵ったが、とうとう処刑された。九真郡では功曹の李祚がなおも抵抗していたが、呉は季節を挟んだ長期戦の末これも攻め落とし、西晋から交州を奪還することに成功した。孫晧は陶璜を、使持節・都督交州諸軍事・前将軍・交州牧とした。さらに陶璜は、長年呉に従わなかった非漢民族も服属させ、武平・九徳・新昌の三郡、及び九真属国の三十余県を設置した。
天紀3年(279年)夏、郭馬が広州で叛乱を起こした。同年8月、滕脩が1万の兵士を率いて慌ただしく追討に赴いたが、始興で抵抗を受け先に進めなくなったため、徐陵督であった弟の陶濬が7000人を率いて、陶璜と協力して援軍に赴くことになった。
同年冬、西晋が大軍を動員して呉に侵攻して来た。陶濬が迎え撃つため建業に戻ったが、滕脩と陶璜は引き続き反乱鎮圧にあたった。しかし翌年(280年)、鎮圧できないまま、孫晧は西晋に降伏した。孫晧は自ら陶璜に手紙を書き、さらに陶璜の子の陶融を西晋への降伏のため派遣した。陶璜は命令を受け取ると数日間涙を流し、使者を派遣して印綬を洛陽(西晋の首都)に送った。西晋の司馬炎(武帝)は詔を下して元職に復職させた上で、陶璜を宛陵侯に封じ、さらに冠軍将軍に任命した。
西晋は天下を統一したので、常備軍の大幅な削減に着手した。しかし陶璜は、林邑を始めとする非漢民族の脅威や、また西晋の支配に従わない不服従民の多さなどを挙げ反対した。また、特産品の真珠が徴発されていたが、土地がやせ貧しい広州の住民には貴重な収入源となっていることを指摘し、徴発量を減らすよう上表した。司馬炎は全て聞き入れたという。
陶璜の交州統治は30年におよび、威厳と恩恵を周囲に示した。太熙元年(290年)に陶璜が亡くなると[4]、州を挙げて慟哭の声が起こり、まるで慈悲深い親を亡くした喪中の子供のようであったという。西晋は後任に吾彦を任命した。後、子の陶威・陶淑、孫の陶綏(陶淑の子)も交州刺史となり、陶基から4代で5人の交州刺史、あるいは牧を輩出した。
家系図
陶基 | 陶璜 | 陶融 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
陶威 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
陶淑 | 陶綏 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
陶濬 | 陶湮 | 陶馥 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
陶猷 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
陶抗 | 陶回 | 陶汪 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
陶陋 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
陶隠 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
陶無忌 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||