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「陳少帝」の版間の差分

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== 生涯 ==
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第12代皇帝・[[陳順宗|順宗]]の長男。[[光泰]]11年[[3月15日 (旧暦)|3月15日]]([[1398年]][[4月2日]])、父帝が外祖父の[[胡季|黎季{{Lang|ko|}}]]に脅されて譲位させられると、わずか3歳で即位した<ref name="Toanthu8a"/>。当然ながら幼年の少帝に実権はなく、国祖章皇を自称した<ref name="Toanthu8b">『大越史記全書』本紀巻之八 陳紀 付胡季犛、漢蒼</ref>黎季{{Lang|ko|犛}}が全てを掌握していた。[[建新]]3年[[2月28日 (旧暦)|2月28日]]([[1400年]][[3月23日]])、黎季{{Lang|ko|犛}}に[[禅譲]]を迫られて譲位した<ref name="Toanthu8b"/>。ここに陳朝は滅び、[[胡朝]]が成立した。
第12代皇帝・[[陳順宗|順宗]]の長男。[[光泰]]11年[[3月15日 (旧暦)|3月15日]]([[1398年]][[4月2日]])、父帝が外祖父の[[胡季|黎季犛]]に脅されて譲位させられると、わずか3歳で即位した<ref name="Toanthu8a"/>。当然ながら幼年の少帝に実権はなく、国祖章皇を自称した<ref name="Toanthu8b">『大越史記全書』本紀巻之八 陳紀 付胡季犛、漢蒼</ref>黎季{{Lang|ko|犛}}が全てを掌握していた。[[建新]]3年[[2月28日 (旧暦)|2月28日]]([[1400年]][[3月23日]])、黎季{{Lang|ko|犛}}に[[禅譲]]を迫られて譲位した<ref name="Toanthu8b"/>。ここに陳朝は滅び、[[胡朝]]が成立した。


陳[[ファイル:安火缺字.svg|15px]]は黎季犛の外孫だったために助命され、保寧大王に封じられた<ref name="Toanthu8b"/>が、その後の記録はない。
陳[[ファイル:安火缺字.svg|15px]]は黎季犛の外孫だったために助命され、保寧大王に封じられた<ref name="Toanthu8b"/>が、その後の記録はない。

2020年8月28日 (金) 05:08時点における版

少帝 陳
陳朝
第13代皇帝
王朝 陳朝
在位期間 1398年4月2日 - 1400年3月23日
姓・諱
生年 光泰9年(1396年[1][2]
没年 不詳
順宗
欽聖皇后
元号 建新 : 1398年 - 1400年

陳少帝(ちんしょうてい、ベトナム語Trần Thiếu Đế / 陳少帝)は、陳朝大越の第13代(最後)の皇帝

生涯

第12代皇帝・順宗の長男。光泰11年3月15日1398年4月2日)、父帝が外祖父の黎季犛に脅されて譲位させられると、わずか3歳で即位した[1]。当然ながら幼年の少帝に実権はなく、国祖章皇を自称した[3]黎季が全てを掌握していた。建新3年2月28日1400年3月23日)、黎季禅譲を迫られて譲位した[3]。ここに陳朝は滅び、胡朝が成立した。

は黎季犛の外孫だったために助命され、保寧大王に封じられた[3]が、その後の記録はない。

出典

  1. ^ a b 『大越史記全書』本紀巻之八 陳紀 順宗皇帝
  2. ^ 桃木(1982年)、86ページ・表Ⅰ
  3. ^ a b c 『大越史記全書』本紀巻之八 陳紀 付胡季犛、漢蒼

参考文献

  • 小倉貞男『物語 ヴェトナムの歴史 一億人国家のダイナミズム』〈中公新書〉1997年7月。 
  • 桃木至朗「陳朝期ヴェトナムの政治体制に関する基礎的研究」『東洋史研究』第41巻、第1号、1982年。 
先代
順宗
陳朝の第13代皇帝
1398年 - 1400年
次代
簡定帝(後陳朝)