コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「阮廌」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: 熺熒犛筠を含む記事の改名に伴うリンク修正依頼 (胡季犛) - log
13行目: 13行目:


== 生涯 ==
== 生涯 ==
[[ハノイ|昇龍]]で生まれる。[[聖元]]元年([[1400年]])に科挙に及第して[[胡朝]]大虞の[[進士]]となった。[[胡季リ|胡季{{Lang|ko|}}]]による[[陳朝]]簒奪の懲罰として[[明]]が侵攻してきたことにより胡朝は滅亡、安南は明の支配下に入った。阮{{Lang|vi|廌}}の父{{仮リンク|阮飛卿|zh|阮飛卿}}も明に捕虜として連行された。阮{{Lang|vi|廌}}は安南独立のため{{仮リンク|ラムソン (タインホア市)‎|label=藍山|vi|Lam Sơn, thành phố Thanh Hóa}}で蜂起した[[黎利]]軍に参加してその参謀格となり、独立戦争で活躍した([[藍山蜂起]])。明の支配をはねのけ、[[順天 (黎朝)|順天]]元年([[1428年]])に黎利は皇帝に即位して後黎朝を建てた(太祖)。阮{{Lang|vi|廌}}は[[丞相]]となって太祖を補佐し、諸制度の整備に努めた。また、太祖に独立戦争の過程で捕獲した明軍の捕虜を解放するよう進言し、明との関係改善にも努めた。しかし太祖の死後、後を継いだ次男の[[黎太宗|太宗]]の代になると、朝廷内の権力争いが激化する。太宗の扶育係でもあった阮{{Lang|vi|廌}}は建国の功臣としてその権力を危ぶまれ、故郷の回崑山清虚洞に隠居した。しかし、太宗が閲兵式の帰りに阮{{Lang|vi|廌}}邸に立ち寄った際、たまたま急死したため、太宗暗殺の罪を着せられ、[[大宝 (黎朝)|大宝]]3年([[1442年]])に[[族誅|三族ともども処刑された]]。後の[[黎聖宗|聖宗]]の代に名誉回復がなされ、金紫栄禄大夫に追封された。
[[ハノイ|昇龍]]で生まれる。[[聖元]]元年([[1400年]])に科挙に及第して[[胡朝]]大虞の[[進士]]となった。[[胡季犛]]による[[陳朝]]簒奪の懲罰として[[明]]が侵攻してきたことにより胡朝は滅亡、安南は明の支配下に入った。阮{{Lang|vi|廌}}の父{{仮リンク|阮飛卿|zh|阮飛卿}}も明に捕虜として連行された。阮{{Lang|vi|廌}}は安南独立のため{{仮リンク|ラムソン (タインホア市)‎|label=藍山|vi|Lam Sơn, thành phố Thanh Hóa}}で蜂起した[[黎利]]軍に参加してその参謀格となり、独立戦争で活躍した([[藍山蜂起]])。明の支配をはねのけ、[[順天 (黎朝)|順天]]元年([[1428年]])に黎利は皇帝に即位して後黎朝を建てた(太祖)。阮{{Lang|vi|廌}}は[[丞相]]となって太祖を補佐し、諸制度の整備に努めた。また、太祖に独立戦争の過程で捕獲した明軍の捕虜を解放するよう進言し、明との関係改善にも努めた。しかし太祖の死後、後を継いだ次男の[[黎太宗|太宗]]の代になると、朝廷内の権力争いが激化する。太宗の扶育係でもあった阮{{Lang|vi|廌}}は建国の功臣としてその権力を危ぶまれ、故郷の回崑山清虚洞に隠居した。しかし、太宗が閲兵式の帰りに阮{{Lang|vi|廌}}邸に立ち寄った際、たまたま急死したため、太宗暗殺の罪を着せられ、[[大宝 (黎朝)|大宝]]3年([[1442年]])に[[族誅|三族ともども処刑された]]。後の[[黎聖宗|聖宗]]の代に名誉回復がなされ、金紫栄禄大夫に追封された。


国民的詩人としても名高く、『{{仮リンク|抑斎詩集|vi|Ức Trai thi tập}}』などの詩集を残している。また独立戦争の詳細を筆記した『{{仮リンク|藍山実録|zh|藍山實錄}}』『{{仮リンク|平呉大誥|zh|平吳大誥}}』なども著した。その他歴史学・地理学・音楽など多くの分野に精通した学者でもあり、今なおベトナム史上の偉人として国民の人気も高い。彼の名を冠したグエン・チャイ通り({{Lang-vi|Đường Nguyễn Trãi}})はベトナムの各都市にある。
国民的詩人としても名高く、『{{仮リンク|抑斎詩集|vi|Ức Trai thi tập}}』などの詩集を残している。また独立戦争の詳細を筆記した『{{仮リンク|藍山実録|zh|藍山實錄}}』『{{仮リンク|平呉大誥|zh|平吳大誥}}』なども著した。その他歴史学・地理学・音楽など多くの分野に精通した学者でもあり、今なおベトナム史上の偉人として国民の人気も高い。彼の名を冠したグエン・チャイ通り({{Lang-vi|Đường Nguyễn Trãi}})はベトナムの各都市にある。

2020年8月28日 (金) 05:07時点における版

(16世紀の肖像)
各種表記
漢字チュノム
北部発音: グエン・チャイ
日本語読み: げん ち
テンプレートを表示

(グエン・チャイ、ベトナム語Nguyễn Trãi / 阮廌昌符4年(1380年) - 大宝3年8月16日1442年9月19日))は、後黎朝大越の建国の功臣、政治家、儒学者、詩人。号は抑斎ベトナム語Ức Trai / 抑齋)。功績により皇室の姓「黎」を賜ったため(レ・チャイ、ベトナム語Lê Trãi / 黎廌)とも。

生涯

昇龍で生まれる。聖元元年(1400年)に科挙に及第して胡朝大虞の進士となった。胡季犛による陳朝簒奪の懲罰としてが侵攻してきたことにより胡朝は滅亡、安南は明の支配下に入った。阮の父阮飛卿中国語版も明に捕虜として連行された。阮は安南独立のため藍山ベトナム語版で蜂起した黎利軍に参加してその参謀格となり、独立戦争で活躍した(藍山蜂起)。明の支配をはねのけ、順天元年(1428年)に黎利は皇帝に即位して後黎朝を建てた(太祖)。阮丞相となって太祖を補佐し、諸制度の整備に努めた。また、太祖に独立戦争の過程で捕獲した明軍の捕虜を解放するよう進言し、明との関係改善にも努めた。しかし太祖の死後、後を継いだ次男の太宗の代になると、朝廷内の権力争いが激化する。太宗の扶育係でもあった阮は建国の功臣としてその権力を危ぶまれ、故郷の回崑山清虚洞に隠居した。しかし、太宗が閲兵式の帰りに阮邸に立ち寄った際、たまたま急死したため、太宗暗殺の罪を着せられ、大宝3年(1442年)に三族ともども処刑された。後の聖宗の代に名誉回復がなされ、金紫栄禄大夫に追封された。

国民的詩人としても名高く、『抑斎詩集ベトナム語版』などの詩集を残している。また独立戦争の詳細を筆記した『藍山実録中国語版』『平呉大誥中国語版』なども著した。その他歴史学・地理学・音楽など多くの分野に精通した学者でもあり、今なおベトナム史上の偉人として国民の人気も高い。彼の名を冠したグエン・チャイ通り(ベトナム語: Đường Nguyễn Trãi)はベトナムの各都市にある。