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長笛を吹くのが上手で、宋の[[趙匡胤|太祖]]は偏殿<ref group="注">「偏殿」とは、別殿の一種で「脇の殿堂、正殿に対する語。」 - 百度百科「[https://baike.baidu.com/item/%E5%81%8F%E6%AE%BF/8957717 偏殿]」、「正殿外の宮殿。古代は専ら皇帝の宮殿を指して言った。今は寺院・廟堂にも使う。」 - [[漢典]]「[http://www.zdic.net/c/f/6B/104623.htm 偏殿]」。</ref>まで召し出して吹かせたという<ref>下記[[#songshi|『'''宋史'''』「巻四百七十九 列伝第二百三十八 世家二」]]より、“炯は性格が大胆で率直、操行というものにこだわらず、長笛が雅で上手かった。太祖は常に偏殿に召して数曲演奏させていた。[[御史中丞]]の劉温叟がこれを聞きつけ、偏殿の門を叩いて面会を求め、諫めて言った、「禁中に近侍する官署の職は、もっぱら詔を掌るものであり、芸人のことなぞしてはなりませんぞ」と。上は言った、「朕は、孟昶は君臣共に声楽に溺れ、炯は宰相の位に至ったにも関わらずこの芸を習得し、そこで我らの囚われとなったと聞いておる。炯を召したのは、その言葉が言いがかりではないかと確かめてみようと思ったからじゃ」。温叟は陳謝して言った、「臣は愚かにも、過去の過ちを鑑として戒めとする陛下の絶妙な大御心が分かりませんでした」と。これ以降は再び召す事はなかった。炯は詞を作るのを好んだものの、多作であったが上手くはなく、詔勅の起草を掌ったが、特に秀でた点もなかった。ただ、蜀に仕えていた頃、卿相(大臣)たちは奢侈淫靡を貴んだが、炯はそれでも倹約質素を守っていた。この事は称えられて然るべきである。”({{lang|zh-Hant|“迥性坦率,無檢操,雅善長笛。太祖常召於偏殿,令奏數曲。御史中丞劉溫叟聞之,叩殿門求見,諫曰:「禁署之職,典司誥命,不可作伶人之事。」上曰:「朕嘗聞孟昶君臣溺於聲樂,迥至宰司尚習此技,故為我所擒。所以召迥,欲驗言者之不誣也。」溫叟謝曰:「臣愚不識陛下鑒戒之微旨。」自是不復召。迥好為歌詩,雖多而不工,掌誥命亦非所長。但在蜀日,卿相以奢靡相尚,迥猶能守儉素,此其可稱也。”}})</ref>。また詞に巧みであり、風格は極めてなよやかな趣で、女子の心の有様を写すのが上手である。[[鄭振鐸]]は、欧陽炯を「『[[花間集]]』中、温([[ |
長笛を吹くのが上手で、宋の[[趙匡胤|太祖]]は偏殿<ref group="注">「偏殿」とは、別殿の一種で「脇の殿堂、正殿に対する語。」 - 百度百科「[https://baike.baidu.com/item/%E5%81%8F%E6%AE%BF/8957717 偏殿]」、「正殿外の宮殿。古代は専ら皇帝の宮殿を指して言った。今は寺院・廟堂にも使う。」 - [[漢典]]「[http://www.zdic.net/c/f/6B/104623.htm 偏殿]」。</ref>まで召し出して吹かせたという<ref>下記[[#songshi|『'''宋史'''』「巻四百七十九 列伝第二百三十八 世家二」]]より、“炯は性格が大胆で率直、操行というものにこだわらず、長笛が雅で上手かった。太祖は常に偏殿に召して数曲演奏させていた。[[御史中丞]]の劉温叟がこれを聞きつけ、偏殿の門を叩いて面会を求め、諫めて言った、「禁中に近侍する官署の職は、もっぱら詔を掌るものであり、芸人のことなぞしてはなりませんぞ」と。上は言った、「朕は、孟昶は君臣共に声楽に溺れ、炯は宰相の位に至ったにも関わらずこの芸を習得し、そこで我らの囚われとなったと聞いておる。炯を召したのは、その言葉が言いがかりではないかと確かめてみようと思ったからじゃ」。温叟は陳謝して言った、「臣は愚かにも、過去の過ちを鑑として戒めとする陛下の絶妙な大御心が分かりませんでした」と。これ以降は再び召す事はなかった。炯は詞を作るのを好んだものの、多作であったが上手くはなく、詔勅の起草を掌ったが、特に秀でた点もなかった。ただ、蜀に仕えていた頃、卿相(大臣)たちは奢侈淫靡を貴んだが、炯はそれでも倹約質素を守っていた。この事は称えられて然るべきである。”({{lang|zh-Hant|“迥性坦率,無檢操,雅善長笛。太祖常召於偏殿,令奏數曲。御史中丞劉溫叟聞之,叩殿門求見,諫曰:「禁署之職,典司誥命,不可作伶人之事。」上曰:「朕嘗聞孟昶君臣溺於聲樂,迥至宰司尚習此技,故為我所擒。所以召迥,欲驗言者之不誣也。」溫叟謝曰:「臣愚不識陛下鑒戒之微旨。」自是不復召。迥好為歌詩,雖多而不工,掌誥命亦非所長。但在蜀日,卿相以奢靡相尚,迥猶能守儉素,此其可稱也。”}})</ref>。また詞に巧みであり、風格は極めてなよやかな趣で、女子の心の有様を写すのが上手である。[[鄭振鐸]]は、欧陽炯を「『[[花間集]]』中、温([[温庭筠]])・韋([[韋荘]])の後を継ぐに堪うる一大作家である」と評している<ref>[[鄭振鐸]] 『挿図本中国文学史』</ref>。 |
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また、詩の代表作として、『貫休応夢羅漢画歌』『題景煥画応天寺壁天王歌』等がある。 |
また、詩の代表作として、『貫休応夢羅漢画歌』『題景煥画応天寺壁天王歌』等がある。 |
2020年8月28日 (金) 05:02時点における版
おうよう けい | |
---|---|
生誕 | 896年 |
死没 |
971年 洛陽 |
職業 | 政治家、詩人、詞人、文学者 |
代表作 | 『花間集』序 |
欧陽 炯[1][2](おうよう けい、896年(乾寧3年) - 971年(開宝4年))は、中国五代十国時代の後蜀の大臣、花間派詞人。字は不詳。益州華陽県(現在の四川省成都市双流区)の人。父は唐の通泉県(現在の四川省遂寧市射洪市)令欧陽珏[注 1]。
経歴
生まれは唐の昭宗の乾寧3年(896年)、欧陽炯は若くして前蜀の後主王衍に仕えて中書舎人となり、蜀が亡びると後唐に帰順し、秦州(現在の甘粛省天水市)従事となる。孟知祥が西川節度使に任じられると、欧陽炯は西川(益州)に戻った。その後、西川節度使に任じられた孟知祥が成都を拠点に自立し、後蜀を建てると、欧陽炯は今度は孟知祥に仕え、再び中書舎人となる。広政12年(949年)、後主孟昶は彼を任命して翰林学士とし、950年、欧陽炯は知貢挙・判太常寺。礼部侍郎に遷り、陵州(現在の四川省眉山市)刺史を拝領し、吏部侍郎に転じ、承旨を加贈された。961年。欧陽炯は門下侍郎兼戸部尚書・平章事・監察国史を拝し、宰相となった。965年、宋の太祖が後蜀を滅ぼすと、欧陽炯は宋に帰順し、右散騎常侍となり、にわかに翰林学士に充てられ、左散騎常侍に転じた。
太祖の開宝4年(971年)、宋が南漢を滅ぼすと、彼は南海を祭る一件で、太祖の弟の趙光義に罪を得て、本官西京[注 2]分司[注 3]を以て卒した。年は76歳、工部尚書を追贈された。
芸術的評価
長笛を吹くのが上手で、宋の太祖は偏殿[注 4]まで召し出して吹かせたという[3]。また詞に巧みであり、風格は極めてなよやかな趣で、女子の心の有様を写すのが上手である。鄭振鐸は、欧陽炯を「『花間集』中、温(温庭筠)・韋(韋荘)の後を継ぐに堪うる一大作家である」と評している[4]。
また、詩の代表作として、『貫休応夢羅漢画歌』『題景煥画応天寺壁天王歌』等がある。
代表詞作
巫山一段雲[* 1] | ||
---|---|---|
白文 | 書き下し文 | 訳文 |
春去秋來也[* 2] | 春去り 秋来たるや[* 2] | 春は去り秋がやって来た |
愁心似醉醺[* 3] | 物寂しい気持ちは酔いが身に | |
去時邀約[* 4]早回輪 | 去る時 |
別れる時に、また会う約束をすると、早々と車輪を返して去って行く |
及去又何曾 | 去るに |
あなたが去る時に今まで何かこんなことってあったかしら[* 5] |
歌扇花光黦[* 6] | 歌扇の花光 |
わたしが歌舞に使う扇の花柄は |
衣珠滴淚新 | 服に縫い付けた | |
恨[* 7]身翻[* 8]不作車塵 | 残念なのは、変身してその車輪に付く土ぼこりとなって | |
萬里得隨君 | 万里 君に |
万里の |
- 注釈
- ^ 「巫山一段雲」は題名ではなく詞調名(詞牌)。
- ^ a b 「也」で「秋が来た!」と強調している。
- ^ a b 「醺」は字義通りには「ほろ酔い」だが、ここでは「酔醺」で、酔ってふらついて気分が悪いことを言うようだ。
- ^ a b 「邀約」で「(また会う)約束をする」。
- ^ a b 反語。「今までこんなこと何もなかったのに!」。
- ^ a b 黒ずんだ黄色。黒ずみ
色 褪 せた様子。 - ^ a b 残念な気持ち。心残りな気持ち。
- ^ a b 「身翻」で、生まれ変わる。または変身する。
- ^ 付き従う。付いて行く。
- ^ 長い道のり。
南郷子[§ 1] | ||
---|---|---|
白文 | 書き下し文 | 訳文 |
畫舸停橈 | 彩られた船が櫂を停める | |
槿花籬外竹横橋 | 槿(むくげ)の花咲く垣根の外、竹を架け渡した橋のあたり | |
水上遊人沙上女 | 水上の遊人 沙上の女 | 水上の船に乗った旅人に河原の砂の上の女性が |
迴顧 | 振り返り | |
笑指芭蕉林裏住 | 笑って指さす |
笑いながら芭蕉の林を指をさす、あの中に住んでいる、という様子で |
- 注釈
- ^ 「南郷子」は題名ではなく詞調名(詞牌)だが、「江南の郷村」という意味に解せば、内容と一致している。このような場合を「本意」と呼ぶ。
- ^ 「舸」は大きな船。
- ^ 『歴代名詞選』(1965年), pp.116-117では“槿の花咲く垣根の外の竹の生えている辺りに「よこたわ」って架けられた橋”としているが、『全唐五代词释注』(1998年), pp.1139-1140 (籍成山 撰稿)では“槿の花咲く垣根の外に「竹を架け渡して作った橋」”としている。
春光好[‡ 1] | ||
---|---|---|
白文 | 書き下し文 | 訳文 |
花滴露 | 花 露を滴らせ | 花はしとどに露を滴らせ |
柳搖煙 | 柳 |
柳は |
艷陽天 | 日の煌めく麗らかな春の空 | |
雨霽山櫻紅欲爛 | 雨 |
雨が上がって晴れた空に、山桜[‡ 2]が |
谷鶯遷 | ||
飮處交飛玉斝 | 飲む処 |
飲み会では、 |
游時倒把金鞭 | 遊ぶ時 |
遊ぶ時は、気ままに |
風颭九衢楡葉動 | 風は |
四方八方に広がる街角の至る所に、風がどっと吹きつけ |
簇靑錢 | 青銭を |
緑青ふいた銅銭のような青い楡の実を吹き |
- 注釈
- ^ 「春光好」は題名ではなく詞調名(詞牌)だが、「春の明るい景色の麗らかさ」という意味に解せば、内容と一致している。このような場合を「本意」と呼ぶ。
- ^ a b 「山桜」と訳すが、元より日本の山桜ではなかろう。赤い花が美しい山に生えるバラ科の植物であろう。
- ^ 谷間の鶯。鶯(うぐいす)と言っても日本のウグイスではなくコウライウグイス。黄鸝(こうり)・倉庚(そうこう)・黄鶯(こうおう)・黄鳥(こうちょう)などとも呼ぶ。
- ^ 谷間を行き来する。
- ^ ウグイスが鳴きながら谷間をあちこち行き来する事を指す表現。本来、日本のウグイスに対して使い、コウライウグイスのことではないが、同様の動きを指しているので、使用してみる。
- ^ 「〻」は踊り字(繰り返し記号)の1種で、二の字点や揺すり点などという。
- ^ 「斝」は古代の酒器、杯の1種。ここでは、「玉斝」で杯の美称。
- ^ 「金鞭」は、鞭の美称。「倒に金鞭を把る」というのは、思い思いに鞭を手に馬を騎り回す様子を表す。
- ^ 楡は良く街路樹として植えられる。
脚注
注釈
出典
- ^ a b 「炯」は「烱」とも書く(『歴代名詞選』(1965年), p.3)。
- ^ a b 『宋史』は欧陽迥に作る。
- ^ 下記『宋史』「巻四百七十九 列伝第二百三十八 世家二」より、“炯は性格が大胆で率直、操行というものにこだわらず、長笛が雅で上手かった。太祖は常に偏殿に召して数曲演奏させていた。御史中丞の劉温叟がこれを聞きつけ、偏殿の門を叩いて面会を求め、諫めて言った、「禁中に近侍する官署の職は、もっぱら詔を掌るものであり、芸人のことなぞしてはなりませんぞ」と。上は言った、「朕は、孟昶は君臣共に声楽に溺れ、炯は宰相の位に至ったにも関わらずこの芸を習得し、そこで我らの囚われとなったと聞いておる。炯を召したのは、その言葉が言いがかりではないかと確かめてみようと思ったからじゃ」。温叟は陳謝して言った、「臣は愚かにも、過去の過ちを鑑として戒めとする陛下の絶妙な大御心が分かりませんでした」と。これ以降は再び召す事はなかった。炯は詞を作るのを好んだものの、多作であったが上手くはなく、詔勅の起草を掌ったが、特に秀でた点もなかった。ただ、蜀に仕えていた頃、卿相(大臣)たちは奢侈淫靡を貴んだが、炯はそれでも倹約質素を守っていた。この事は称えられて然るべきである。”(“迥性坦率,無檢操,雅善長笛。太祖常召於偏殿,令奏數曲。御史中丞劉溫叟聞之,叩殿門求見,諫曰:「禁署之職,典司誥命,不可作伶人之事。」上曰:「朕嘗聞孟昶君臣溺於聲樂,迥至宰司尚習此技,故為我所擒。所以召迥,欲驗言者之不誣也。」溫叟謝曰:「臣愚不識陛下鑒戒之微旨。」自是不復召。迥好為歌詩,雖多而不工,掌誥命亦非所長。但在蜀日,卿相以奢靡相尚,迥猶能守儉素,此其可稱也。”)
- ^ 鄭振鐸 『挿図本中国文学史』
参考書籍
- 『宣和画譜』
参考文献
- 『宋史』 (中国語) 巻四百七十九 列伝第二百三十八 世家二, ウィキソースより閲覧。
- 『李煜』岩波書店〈中國詩人選集〉、1959年、142頁。
- 『歴代名詞選』集英社〈漢詩大系〉、1965年、116-117,407頁。
- 孔, 范今 (1998). 责任编辑 吴秉辉、郭继明. ed. 全唐五代词释注. 西安: 陕西人民出版社. pp. 1139-1140,1153. ISBN 7224046949
- 曾昭岷; 曹濟平; 王兆鵬; 劉尊明 (2008) [1999]. 責任編輯 孫通海. ed. 全唐五代詞 (第2次印刷 ed.). 北京: 中華書局. pp. 447-448. ISBN 9787101016093