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当時の詩壇の趨勢は、大振りで華やかな[[唐詩]]から写実的で清新な[[宋詩]]へと流行が移り変わろうとする時期であったが、その中において柳湾は[[唐|中晩唐]]の高雅典麗な詩風を好み、[[絶句|絶句集]]をさかんに刊行した。[[杜牧]]、[[温庭筠]]、[[李商隠]]、[[韓偓]]などの影響がみられ、平易で澄明な詩風が大いに人気を博した。 |
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明治以降、柳湾は忘れられた詩人となったが[[永井荷風]]によって再評価される。荷風は柳湾の詩を「江戸名所の絵本をひらき見るの思あり」とし、近代[[フランス]]の[[叙情詩]]に匹敵するとその著『葷斎漫筆』の中で絶賛している<ref>{{Cite book|和書|author=富士川英郎|year=1966|title=江戸後期の詩人たち|publisher=麥書房|pages=P.144}}</ref>。 |
明治以降、柳湾は忘れられた詩人となったが[[永井荷風]]によって再評価される。荷風は柳湾の詩を「江戸名所の絵本をひらき見るの思あり」とし、近代[[フランス]]の[[叙情詩]]に匹敵するとその著『葷斎漫筆』の中で絶賛している<ref>{{Cite book|和書|author=富士川英郎|year=1966|title=江戸後期の詩人たち|publisher=麥書房|pages=P.144}}</ref>。 |
2020年8月28日 (金) 05:01時点における版
館 柳湾(たち りゅうわん、宝暦12年3月11日(1762年4月5日) - 天保15年4月13日(1844年5月29日))は、江戸時代後期の日本の漢詩人・書家である。
本姓は小山氏、養子となって館を名乗る[1]。名を機、字は枢卿、通称を雄次郎。柳湾の号は、故郷である信濃川河口の柳のある入り江に因んでいる。別号に石香斎・三十六湾外史などがある。
人物
柳湾は、温厚な性格で寡黙であり[2]、色白で背が高く、酒を嗜むことなく一日に一升の飯を食べたという。実直な役人として上司の信任が篤く加えて領民思いだった。師の亀田鵬斎が寛政異学の禁のためほとんどの門弟を失ったが、柳湾はその後も師弟の関係を続けていることから義に篤い人物だったと思われる。最も詩と書に巧みだったが、和歌と篆刻も好んだ。中井敬所の『日本印人伝』にその名が見える。多くの著作を刊行し、江戸庶民の人気を博した。同じく幕臣で漢詩人であった岡本花亭と並び称され[3]、詩人として順風満帆で幸福な人生を送った。息子の館霞舫は画家となっている。
詩風・詩業
当時の詩壇の趨勢は、大振りで華やかな唐詩から写実的で清新な宋詩へと流行が移り変わろうとする時期であったが、その中において柳湾は中晩唐の高雅典麗な詩風を好み、絶句集をさかんに刊行した。杜牧、温庭筠、李商隠、韓偓などの影響がみられ、平易で澄明な詩風が大いに人気を博した。
明治以降、柳湾は忘れられた詩人となったが永井荷風によって再評価される。荷風は柳湾の詩を「江戸名所の絵本をひらき見るの思あり」とし、近代フランスの叙情詩に匹敵するとその著『葷斎漫筆』の中で絶賛している[4]。
辺縁の地を嫌い、早くから江戸に出た柳湾であったが、山国飛騨高山に赴任し、一時は生涯をその地に終える覚悟であったらしい。
飛騨の山河を詠んだ美しい詩が遺されている。
中山七里(なかやましちり) | |
楓林霜後競鮮明 | 楓林(ふうりん) 霜後(そうご)に 鮮明を競い |
曝錦中山七里程 | 錦を曝(さら)す 中山 七里の程(てい) |
誰道天機無織具 | 誰か道(い)う 天機 職具無しと |
長渓処処桟編筬 | 長渓 処処 桟 筬(おさ)を編む |
略歴
- 新潟(現新潟市上大川前通)の廻船問屋 小山家の次男として父 弥右衛門、母 八重の間に生まれる[注釈 1]。
- 少年期には儒医 高田仁庵に『詩経』『書経』などを学ぶ。
- 早くに両親を失ったため、巻村にある質屋 館徳信の養子となる。
- 13歳になると江戸に出て、代官の手代となる[6]。
- 成人後、幕臣 小出照方の家臣となる。
- 26歳、恩師 高田仁庵の姪 佳輿(かよ)を娶る。長女梅誕生。
- 35歳、佳輿が病死したが、その妹の順を後妻とした。2男2女を授かる。
- 37歳、大典顕常に会う。
- 38歳、小出照方の計らいで昌平黌の林述斎に入門する。
- 39歳、小出照方が飛騨郡代となりこれに同行して飛騨高山に赴任する。
- 43歳、小出が江戸に戻され、これに伴う。
- 45歳、赤田臥牛の還暦に詩を贈る。
- 66歳、致仕する。(職を退く)
- 69歳、新潟へ里帰りを果たす。
- 70歳、内孫誕生。
- 80歳、傘寿を祝う。両国の万八楼に千人の来賓が集ったという。
- 83歳、目白台の自宅にて歿す。墓は牛込長源寺にある。
交友
刊行出版
- 『金詩選』1807年
- 『晩唐十家絶句』1807年
- 『四詠唱和』1809年
- 『晩唐十二家絶句』1809年
- 『晩唐詩選』1809年
- 『授時図指掌活法之図』1809年
- 『中唐十家絶句』1810年
- 『韓内翰香奩集』1811年
- 『佩文斎詠物詩選』1812年
- 『樊川詩集』1817年
- 『清四大家詩鈔』1819年
- 『柳湾漁唱』一集 万笈堂 1821年
- 『中唐二十家絶句』1824年
- 『列朝詩集絶句集』1827年
- 『茶山集』1828年
- 『柳湾漁唱』二集 1831年
- 『林園月令』]1832年[1]
- 『山村充糧志』1833年
- 『王荊公絶句』1833年
- 『秦漢瓦当図』1838年
- 『詠茶詩録』1839年
- 『晩唐詩鈔』1840年
- 『柳湾漁唱』三集 1841年 (柳湾肖像画:椿椿山筆)
- 『唐詩三体家法』1841年
注釈
脚注
- ^ 今関天彭『書苑 第五巻・第十一号』三省堂、1941年、P.19頁。
- ^ 富士川英郎『江戸後期の詩人たち』麥書房、1966年、P.361頁。
- ^ 富士川英郎『江戸後期の詩人たち』麥書房、1966年、P.135頁。
- ^ 富士川英郎『江戸後期の詩人たち』麥書房、1966年、P.144頁。
- ^ 今関天彭『書苑 第五巻・第十一号』三省堂、1941年、P.19頁。
- ^ 今関天彭『書苑 第五巻・第十一号』三省堂、1941年、P.19頁。
関連文献
- 徳田武訳注・解説 『野村篁園 館柳湾 江戸詩人選集7』 岩波書店、1990年、復刊2001年、ISBN 4000915975。
- 永井荷風 『葷斎漫筆』 岩波書店<「荷風全集」 旧版第15巻>、初版1963年。
- 渡辺秀英篇 『館柳湾』 巻町役場<巻町双書第16集>、1971年。
- 鈴木瑞枝 『館柳湾・人と詩』 太平書屋<太平文庫7>、1981年。
- 市川任三 『小籟吟集』 太平書屋<太平文庫8>、1981年。
- 鈴木瑞枝訳注・解説 『館柳湾 日本漢詩人選集13』 研文出版、1999年、ISBN 4876361649。