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[[507年]](梁の[[天監]]6年)、太子舎人に任じられた。[[509年]](天監8年)、尚書金部郎に転じた。[[513年]](天監12年)、主客郎となった。[[呉県]]令として出向し、治績を挙げた。[[522年]]([[普通 (梁)|普通]]3年)、湘東王[[元帝 (南朝梁)|蕭繹]]の下で諮議参軍となった。[[528年]]([[大通 (梁)|大通]]2年)、給事黄門侍郎に任じられた。[[536年]]([[大同 (梁)|大同]]2年)、武陵王[[蕭紀]]の下で府長史となり、職務に清廉であることで知られた。[[始興郡]][[太守]]として出向し、郡内の治安を安定させた。 |
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[[548年]]([[太清]]2年)1月、[[侯景]]が渦陽で[[東魏]]の[[高岳 (北斉)|高岳]]らに敗れて寿春に入ると、武帝はこれを受け入れようとした。このため蕭介が病身を押して反対論を上表したが、武帝に聞き入れられなかった。ほどなく家で死去した。享年は73。 |
2020年8月28日 (金) 05:00時点における版
蕭介(しょう かい、476年 - 548年)は、南朝斉から梁にかけての官僚。字は茂鏡。本貫は南蘭陵郡蘭陵県。
経歴
斉の左民尚書の蕭恵蒨(蕭思話の子)の子として生まれた。若くして理解が早く、才知や識見をそなえ、経書や史書を広く渉猟し、文章を得意とした。501年(永元3年)、著作佐郎を初任とした。
507年(梁の天監6年)、太子舎人に任じられた。509年(天監8年)、尚書金部郎に転じた。513年(天監12年)、主客郎となった。呉県令として出向し、治績を挙げた。522年(普通3年)、湘東王蕭繹の下で諮議参軍となった。528年(大通2年)、給事黄門侍郎に任じられた。536年(大同2年)、武陵王蕭紀の下で府長史となり、職務に清廉であることで知られた。始興郡太守として出向し、郡内の治安を安定させた。
541年(大同7年)、建康に召還されて少府卿となり、まもなく散騎常侍の位を加えられた。侍中に欠員が出たため、王筠ら4人が推挙されたが、いずれも武帝の意に合わず、武帝の意向で蕭介が任用された。蕭介は博覧強記で、武帝側近にあって多くの政策修正をおこない、武帝に重用された。都官尚書に転じ、軍事や国政の大事があるたびに意見を聴取され、武帝に「端右の材なり」と評された。547年(中大同2年)、病を理由に引退を願い出て、光禄大夫の位を受けた。
548年(太清2年)1月、侯景が渦陽で東魏の高岳らに敗れて寿春に入ると、武帝はこれを受け入れようとした。このため蕭介が病身を押して反対論を上表したが、武帝に聞き入れられなかった。ほどなく家で死去した。享年は73。