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「慕昌禄」の版間の差分

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なお、渤海使への叙位について、[[遣渤海使]]は五位級の[[官人]]が任命され、宝亀6年([[775年]])に派遣された[[遣唐使]]も、大使は正四位下、副使は[[正五位|正五位下]]および[[従五位|従五位下]]であり、大使に[[従三位]]が与えられた渤海使がいかに優遇されていたかが分かる。
なお、渤海使への叙位について、[[遣渤海使]]は五位級の[[官人]]が任命され、宝亀6年([[775年]])に派遣された[[遣唐使]]も、大使は正四位下、副使は[[正五位|正五位下]]および[[従五位|従五位下]]であり、大使に[[従三位]]が与えられた渤海使がいかに優遇されていたかが分かる。


同年9月に[[遣渤海使|送渤海客使]]の[[武生鳥守]]らに送迎されて渤海使一行は帰国の途につくが、[[暴風]]に遭遇して[[能登国]]に漂着してしまう。客主含めて僅かに辛うじて一命を取り留めた一行は[[福浦港|福良津]](現在の[[石川県]][[羽咋郡]][[志賀町]])に安置されるが<ref>『続日本紀』宝亀3年9月21日条</ref>、宝亀4年([[773年]])2月20日に慕昌禄は帰国が適わないまま日本で卒去した。日本の朝廷は使者を派遣して弔い、[[従三位]]に[[贈位]]するとともに、[[喪葬令]]の規定に従って、[[あしぎぬ|絁]]22疋・布88端・鉄6連を与えたという<ref>『続日本紀』宝亀4年2月20日条</ref>。
同年9月に[[遣渤海使|送渤海客使]]の[[武生鳥守]]らに送迎されて渤海使一行は帰国の途につくが、[[暴風]]に遭遇して[[能登国]]に漂着してしまう。客主含めて僅かに辛うじて一命を取り留めた一行は[[福浦港|福良津]](現在の[[石川県]][[羽咋郡]][[志賀町]])に安置されるが<ref>『続日本紀』宝亀3年9月21日条</ref>、宝亀4年([[773年]])2月20日に慕昌禄は帰国が適わないまま日本で卒去した。日本の朝廷は使者を派遣して弔い、[[従三位]]に[[贈位]]するとともに、[[喪葬令]]の規定に従って、[[絁]]22疋・布88端・鉄6連を与えたという<ref>『続日本紀』宝亀4年2月20日条</ref>。


== 脚注 ==
== 脚注 ==

2020年8月27日 (木) 23:14時点における版

慕 昌禄(も しょうろく、生年不明 - 宝亀4年2月20日773年3月17日))は、渤海国の人物。日本での位階正四位下従三位。第7次渤海使の副使。

経歴

第七次渤海使の副使(正使は壱万福)に任ぜられ、船17隻に分乗した一行325人とともに、宝亀2年(771年)6月に日本の出羽国野代湊(現在の秋田県能代市)に到着した。その後、一行は常陸国に移され、食料などを支給された[1]

同年10月に日本の朝廷では壱万福以下40人を正月の賀正の儀に出席させることが決定され[2]、同年12月に昌禄は壱万福とともに入京した[3]。その後も昌禄は壱万福と行動をともにしており、翌宝亀3年2月に一行は五位以上の官人らとともに朝堂院饗応を受け、三種の楽(唐・東国・隼人などの楽)でもてなされ、副使として正四位下叙位を受け、さらに地位に応じて物を賜っている[4]

なお、渤海使への叙位について、遣渤海使は五位級の官人が任命され、宝亀6年(775年)に派遣された遣唐使も、大使は正四位下、副使は正五位下および従五位下であり、大使に従三位が与えられた渤海使がいかに優遇されていたかが分かる。

同年9月に送渤海客使武生鳥守らに送迎されて渤海使一行は帰国の途につくが、暴風に遭遇して能登国に漂着してしまう。客主含めて僅かに辛うじて一命を取り留めた一行は福良津(現在の石川県羽咋郡志賀町)に安置されるが[5]、宝亀4年(773年)2月20日に慕昌禄は帰国が適わないまま日本で卒去した。日本の朝廷は使者を派遣して弔い、従三位贈位するとともに、喪葬令の規定に従って、22疋・布88端・鉄6連を与えたという[6]

脚注

  1. ^ 『続日本紀』宝亀2年6月27日条
  2. ^ 『続日本紀』宝亀2年10月14日条
  3. ^ 『続日本紀』宝亀2年12月21日条
  4. ^ 『続日本紀』宝亀3年2月2日条
  5. ^ 『続日本紀』宝亀3年9月21日条
  6. ^ 『続日本紀』宝亀4年2月20日条

参考文献