「志良守叡草」の版間の差分
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壁掛成蛸は三考する葦である (会話 | 投稿記録) |
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『[[続日本紀]]』[[宝亀]]11年([[780年]])8月に、「狄の[[志良須宇奈古|志良須俘囚宇奈古]]らが、『私たちは官威を頼みとして久しく城の下に居住しておりますが、今この[[秋田城]]はついに永久に放棄されるのでしょうか」と[[出羽国]]鎮狄将軍の[[安倍家麻呂]]に尋ねている箇所があり<ref>『続日本紀』巻第三十六、光仁天皇、宝亀11年8月23日条</ref>、そこから「志良守」は秋田城付近の地名、あるいは部族名である可能性が強い。 |
『[[続日本紀]]』[[宝亀]]11年([[780年]])8月に、「狄の[[志良須宇奈古|志良須俘囚宇奈古]]らが、『私たちは官威を頼みとして久しく城の下に居住しておりますが、今この[[秋田城]]はついに永久に放棄されるのでしょうか」と[[出羽国]]鎮狄将軍の[[安倍家麻呂]]に尋ねている箇所があり<ref>『続日本紀』巻第三十六、光仁天皇、宝亀11年8月23日条</ref>、そこから「志良守」は秋田城付近の地名、あるいは部族名である可能性が強い。 |
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志良守叡草の名は『[[日本書紀]]』の[[持統天皇]]10年([[696年]])3月にのみ見える。それによれば、「錦袍袴<small>(にしきのきぬはかま)</small>(=錦で作った上着とはかま)・緋紺[[ |
志良守叡草の名は『[[日本書紀]]』の[[持統天皇]]10年([[696年]])3月にのみ見える。それによれば、「錦袍袴<small>(にしきのきぬはかま)</small>(=錦で作った上着とはかま)・緋紺[[絁]]<small>(ひはなだのふとぎぬ)</small>、斧等を賜ふ」とある<ref>『日本書紀』巻第三十、持統天皇10年3月12日条</ref>。越の渡嶋の[[蝦夷]]とともに、これらの品々を賜物しているため、彼らが北からやってきたことは明らかであり、これは、[[阿倍比羅夫]]が[[斉明天皇]]6年([[660年]])3月に渡嶋の粛慎に提示した交易品(綏帛(しみのきぬ)・兵・鉄)と同じでもある。 |
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その後、文武天皇元年([[697年]])から同3年にかけて、「[[陸奥]]」(みちのおく)の「蝦夷」・「[[越後国|越後]]」の「蝦狄」が「方物」を献上したり、位を授かったりしていることから<ref>『続日本紀』巻第一、文武天皇元年10月19日条</ref><ref>『続日本紀』巻第一、文武天皇元年12月18日条</ref><ref>『続日本紀』巻第一、文武天皇2年6月14日条</ref><ref>『続日本紀』巻第一、文武天皇2年10月23日条</ref><ref>『続日本紀』巻第一、文武天皇3年4月25日条</ref>、引き続き日本海を通じての交易が盛んに行われてきたことが分かる。元正天皇の[[養老]]4年([[720年]])正月、「渡嶋津軽津司[[従七位上]][[諸鞍男|諸君鞍男]]ら六人を[[靺鞨|靺鞨国]]に遣し、その風俗を観せしむ」とあり<ref>『続日本紀』巻第八、元正天皇、養老4年正月23日条</ref>、公的に北の海の道をつかさどる機関が設置された。 |
その後、文武天皇元年([[697年]])から同3年にかけて、「[[陸奥]]」(みちのおく)の「蝦夷」・「[[越後国|越後]]」の「蝦狄」が「方物」を献上したり、位を授かったりしていることから<ref>『続日本紀』巻第一、文武天皇元年10月19日条</ref><ref>『続日本紀』巻第一、文武天皇元年12月18日条</ref><ref>『続日本紀』巻第一、文武天皇2年6月14日条</ref><ref>『続日本紀』巻第一、文武天皇2年10月23日条</ref><ref>『続日本紀』巻第一、文武天皇3年4月25日条</ref>、引き続き日本海を通じての交易が盛んに行われてきたことが分かる。元正天皇の[[養老]]4年([[720年]])正月、「渡嶋津軽津司[[従七位上]][[諸鞍男|諸君鞍男]]ら六人を[[靺鞨|靺鞨国]]に遣し、その風俗を観せしむ」とあり<ref>『続日本紀』巻第八、元正天皇、養老4年正月23日条</ref>、公的に北の海の道をつかさどる機関が設置された。 |
2020年8月27日 (木) 23:14時点における版
志良守叡草(しらすえそう、生没年不詳)は、7世紀後半の粛慎の有力者である。
記録
『続日本紀』宝亀11年(780年)8月に、「狄の志良須俘囚宇奈古らが、『私たちは官威を頼みとして久しく城の下に居住しておりますが、今この秋田城はついに永久に放棄されるのでしょうか」と出羽国鎮狄将軍の安倍家麻呂に尋ねている箇所があり[1]、そこから「志良守」は秋田城付近の地名、あるいは部族名である可能性が強い。
志良守叡草の名は『日本書紀』の持統天皇10年(696年)3月にのみ見える。それによれば、「錦袍袴(にしきのきぬはかま)(=錦で作った上着とはかま)・緋紺絁(ひはなだのふとぎぬ)、斧等を賜ふ」とある[2]。越の渡嶋の蝦夷とともに、これらの品々を賜物しているため、彼らが北からやってきたことは明らかであり、これは、阿倍比羅夫が斉明天皇6年(660年)3月に渡嶋の粛慎に提示した交易品(綏帛(しみのきぬ)・兵・鉄)と同じでもある。
その後、文武天皇元年(697年)から同3年にかけて、「陸奥」(みちのおく)の「蝦夷」・「越後」の「蝦狄」が「方物」を献上したり、位を授かったりしていることから[3][4][5][6][7]、引き続き日本海を通じての交易が盛んに行われてきたことが分かる。元正天皇の養老4年(720年)正月、「渡嶋津軽津司従七位上諸君鞍男ら六人を靺鞨国に遣し、その風俗を観せしむ」とあり[8]、公的に北の海の道をつかさどる機関が設置された。