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大宝3年([[703年]])9月に[[遣新羅使|遣新羅大使]]に任命される。同年10月には同じく使節の[[額田人足]]とともに、[[衾]]1領・[[衣]]1襲を与えられ、また[[新羅|新羅王]]への献上物として[[絹織物|錦]]2匹・[[あしぎぬ|絁]]40匹が授けられた<ref>『続日本紀』大宝3年10月25日条</ref>。
大宝3年([[703年]])9月に[[遣新羅使|遣新羅大使]]に任命される。同年10月には同じく使節の[[額田人足]]とともに、[[衾]]1領・[[衣]]1襲を与えられ、また[[新羅|新羅王]]への献上物として[[絹織物|錦]]2匹・[[絁]]40匹が授けられた<ref>『続日本紀』大宝3年10月25日条</ref>。


翌[[慶雲]]元年([[704年]])8月に広足らは新羅より帰国する(この時の[[位階]]は従五位上)<ref>『続日本紀』慶雲元年8月3日条</ref>。同年10月には引き続いて[[幡文通]]が遣新羅大使に任命されている<ref>『続日本紀』慶雲元年10月9日条</ref>。
翌[[慶雲]]元年([[704年]])8月に広足らは新羅より帰国する(この時の[[位階]]は従五位上)<ref>『続日本紀』慶雲元年8月3日条</ref>。同年10月には引き続いて[[幡文通]]が遣新羅大使に任命されている<ref>『続日本紀』慶雲元年10月9日条</ref>。

2020年8月27日 (木) 23:12時点における版

 
波多広足
時代 飛鳥時代
生誕 不明
死没 不明
官位 従五位上
主君 文武天皇
氏族 波多朝臣
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波多 広足(はた の ひろたり)は、飛鳥時代貴族朝臣官位従五位上遣新羅大使

経歴

文武朝大宝元年(701年右少弁官職にあったが、治部少輔・大宅金弓とともに左大臣多治比真人嶋葬儀を指揮した[1]

大宝3年(703年)9月に遣新羅大使に任命される。同年10月には同じく使節の額田人足とともに、1領・1襲を与えられ、また新羅王への献上物として2匹・40匹が授けられた[2]

慶雲元年(704年)8月に広足らは新羅より帰国する(この時の位階は従五位上)[3]。同年10月には引き続いて幡文通が遣新羅大使に任命されている[4]

官歴

続日本紀』による。

脚注

  1. ^ 『続日本紀』大宝元年7月21日条
  2. ^ 『続日本紀』大宝3年10月25日条
  3. ^ 『続日本紀』慶雲元年8月3日条
  4. ^ 『続日本紀』慶雲元年10月9日条

参考文献