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[[大宝]]2年([[702年]])留学僧として第8次[[遣唐使]]に加わり入唐した[[弁正]]の子として[[唐]]の地にて生まれ、[[養老]]2年([[718年]])の第9次[[遣唐使]]の帰国と共に訪日したと考えられている。
[[大宝]]2年([[702年]])留学僧として第8次[[遣唐使]]に加わり入唐した[[弁正]]の子として[[唐]]の地にて生まれ、[[養老]]2年([[718年]])の第9次[[遣唐使]]の帰国と共に訪日したと考えられている。


翌養老3年([[719年]])に[[忌寸]]姓を賜与される。養老5年([[721年]])[[元正天皇]]の[[詔]]により[[官人]]の中から学業に優れ模範とすべき者に対して褒賞が行われた際、医術に優れるとして[[吉宜]]らと共に朝元の名が挙げられ、[[あしぎぬ|絁]]10疋・[[絹|絹糸]]10絇・[[麻|麻布]]20端・[[鍬]]20口を与えられている(この時の[[位階]]は[[従六位|従六位下]])<ref>『続日本紀』養老5年正月27日条</ref>。
翌養老3年([[719年]])に[[忌寸]]姓を賜与される。養老5年([[721年]])[[元正天皇]]の[[詔]]により[[官人]]の中から学業に優れ模範とすべき者に対して褒賞が行われた際、医術に優れるとして[[吉宜]]らと共に朝元の名が挙げられ、[[絁]]10疋・[[絹|絹糸]]10絇・[[麻|麻布]]20端・[[鍬]]20口を与えられている(この時の[[位階]]は[[従六位|従六位下]])<ref>『続日本紀』養老5年正月27日条</ref>。


[[聖武天皇|聖武朝]]の[[天平]]2年([[730年]])[[訳語]]の弟子二人に唐語を教えるよう命じられ<ref>『続日本紀』天平2年3月27日条</ref>、翌天平3年([[731年]])[[外位|外]][[従五位|従五位下]]に昇叙している。天平4年([[732年]])[[多治比広成]]を大使とする第10次遣唐使節に入唐判官として加えられている。唐では父・弁正の縁故により、[[玄宗 (唐)|玄宗]]によって厚く賞賜を与えられる<ref>入唐の際、弁正や秦朝慶が存命であったについては不明。</ref>。
[[聖武天皇|聖武朝]]の[[天平]]2年([[730年]])[[訳語]]の弟子二人に唐語を教えるよう命じられ<ref>『続日本紀』天平2年3月27日条</ref>、翌天平3年([[731年]])[[外位|外]][[従五位|従五位下]]に昇叙している。天平4年([[732年]])[[多治比広成]]を大使とする第10次遣唐使節に入唐判官として加えられている。唐では父・弁正の縁故により、[[玄宗 (唐)|玄宗]]によって厚く賞賜を与えられる<ref>入唐の際、弁正や秦朝慶が存命であったについては不明。</ref>。
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*[[養老]]3年([[719年]]) 4月9日:無姓から[[忌寸]]姓に[[改姓]]
*[[養老]]3年([[719年]]) 4月9日:無姓から[[忌寸]]姓に[[改姓]]
*時期不詳:[[従六位|従六位下]]
*時期不詳:[[従六位|従六位下]]
*養老5年([[721年]]) 正月27日:賜[[あしぎぬ|絁]]10疋・[[絹|絹糸]]10絇・[[麻|麻布]]20端・[[鍬]]20口
*養老5年([[721年]]) 正月27日:賜[[絁]]10疋・[[絹|絹糸]]10絇・[[麻|麻布]]20端・[[鍬]]20口
*時期不詳:[[正六位|正六位上]]
*時期不詳:[[正六位|正六位上]]
*[[天平]]3年([[731年]]) 正月27日:[[外位|外]][[従五位|従五位下]]
*[[天平]]3年([[731年]]) 正月27日:[[外位|外]][[従五位|従五位下]]

2020年8月27日 (木) 23:11時点における版

 
秦朝元
時代 奈良時代
生誕 不明
死没 不明
官位 従五位上主計頭
主君 元正天皇聖武天皇
氏族 忌寸
父母 父:弁正
兄弟 朝慶、朝元
真成、忍国、藤原清成室、藤原綱手
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秦 朝元(はた の あさもと)は、奈良時代官人忌寸遣唐留学僧弁正の子。官位従五位上主計頭

経歴

大宝2年(702年)留学僧として第8次遣唐使に加わり入唐した弁正の子としての地にて生まれ、養老2年(718年)の第9次遣唐使の帰国と共に訪日したと考えられている。

翌養老3年(719年)に忌寸姓を賜与される。養老5年(721年元正天皇により官人の中から学業に優れ模範とすべき者に対して褒賞が行われた際、医術に優れるとして吉宜らと共に朝元の名が挙げられ、10疋・絹糸10絇・麻布20端・20口を与えられている(この時の位階従六位下[1]

聖武朝天平2年(730年訳語の弟子二人に唐語を教えるよう命じられ[2]、翌天平3年(731年従五位下に昇叙している。天平4年(732年多治比広成を大使とする第10次遣唐使節に入唐判官として加えられている。唐では父・弁正の縁故により、玄宗によって厚く賞賜を与えられる[3]

天平6年(734年)帰国し、翌天平7年(735年)入京して外従五位上に叙されている。天平9年(737年図書頭。天平18年(746年元正天皇の御所に左大臣橘諸兄らと共に参上し、雪景色を和歌に詠むように、との詔があった。他の出席者は和歌で応えたが、秦朝元だけは詠まなかったため、橘諸兄に「麝香をもって贖え」と言われ、黙り込んだと伝えられる[4]。同年3月に主計頭に任ぜられている。

官歴

続日本紀』による。

系譜

脚注

  1. ^ 『続日本紀』養老5年正月27日条
  2. ^ 『続日本紀』天平2年3月27日条
  3. ^ 入唐の際、弁正や秦朝慶が存命であったについては不明。
  4. ^ 『万葉集』巻17
  5. ^ a b 鈴木真年『百家系図』巻50,朝原忌寸,時原宿禰
  6. ^ 『公卿補任』
  7. ^ 『尊卑分脈』

参考文献