「伊吉古麻呂」の版間の差分
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[[元明天皇|元明朝]]の[[和銅]]6年([[713年]])[[従五位|従五位下]]に[[叙爵]]する。[[聖武天皇|聖武朝]]の[[天平]]元年([[729年]])[[長屋王#長屋王の変|長屋王の変]]後に行われた[[叙位]]にて従五位上に、天平4年([[732年]])[[下野国#国司|下野守]]に叙任された。また、時期は不明ながら[[上総国#国司|上総守]]も務めた。 |
2020年8月27日 (木) 23:10時点における版
時代 | 奈良時代 |
---|---|
生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
官位 | 従五位上、上総守 |
主君 | 元明天皇→元正天皇→聖武天皇 |
氏族 | 伊吉連 |
父母 | 父:伊吉綱田(阿弥田) |
子 | 宅麻呂 |
伊吉 古麻呂(いき の こまろ)は、奈良時代の貴族。氏は雪・伊伎とも記される。姓は連。伊吉綱田(阿弥田)の子とする系図がある。官位は従五位上・下野守。
経歴
従八位下の位階にあった慶雲4年(707年)5月に隔絶の地への使者として赴いたことを理由に、巨勢邑治・賀茂吉備麻呂らと共に、文武天皇からあしぎぬ・綿・麻布・鍬および籾を賜与された[1]。なお、巨勢邑治は大宝2年(702年)の第八次遣唐使にて副使として渡海し、この年の3月に唐より帰国していることから[2]、古麻呂もこの遣唐使に同行したものと考えられる。
元明朝の和銅6年(713年)従五位下に叙爵する。聖武朝の天平元年(729年)長屋王の変後に行われた叙位にて従五位上に、天平4年(732年)下野守に叙任された。また、時期は不明ながら上総守も務めた。
『懐風藻』に「五八の年を賀く宴」の題の漢詩作品(五言詩)が採録されている。
官歴
『続日本紀』による。
- 時期不詳:従八位下
- 慶雲4年(707年)5月15日:給綿麻布鍬并穀
- 時期不詳:正六位上
- 和銅6年(713年) 正月23日:従五位下
- 天平元年(729年) 3月4日:従五位上
- 天平4年(732年) 10月17日:下野守
- 時期不詳:上総守[3]
系譜
「松尾社家系図」(『続群書類従』巻第181所収)による。
- 父:伊吉綱田(阿弥田)
- 母:不詳
- 妻:不詳
- 男子:伊吉宅麻呂(?-736)
また同系図では古麻呂から見て、壱伎韓国を伯父、伊吉博徳を大叔父とする。