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== 経歴 ==
== 経歴 ==
[[刑部省|少判事]]を経てしばしば地方官を務めた。勲十二等の[[勲等]]を持っていることから、この間に[[東北地方]]の地方官を務めていた可能性もある。昇進は遅く、[[天平]]7年([[735年]])に48歳にしてようやく[[従五位|従五位下]]に[[叙爵]]された。まもなく[[出雲国#国司|出雲守]]に任ぜられると、任に就いて数年にして人民は満足し安らかであったことから、天平11年([[739年]])[[聖武天皇]]に善政を讃えられ、[[あしぎぬ|絁]]30疋・[[布]]60端・[[正税]]3万束を与えられた。
[[刑部省|少判事]]を経てしばしば地方官を務めた。勲十二等の[[勲等]]を持っていることから、この間に[[東北地方]]の地方官を務めていた可能性もある。昇進は遅く、[[天平]]7年([[735年]])に48歳にしてようやく[[従五位|従五位下]]に[[叙爵]]された。まもなく[[出雲国#国司|出雲守]]に任ぜられると、任に就いて数年にして人民は満足し安らかであったことから、天平11年([[739年]])[[聖武天皇]]に善政を讃えられ、[[絁]]30疋・[[布]]60端・[[正税]]3万束を与えられた。


その後は、[[弁官|左中弁]]を務めたほか[[春宮坊|春宮員外亮]]のち春宮大夫として[[春宮]]・阿倍内親王に仕えながら、天平12年([[740年]])従五位上、天平15年([[743年]])[[正五位|正五位下]]、天平18年([[746年]])正五位上、天平19年([[747年]])[[従四位|従四位下]]と、[[聖武天皇|聖武朝]]の後半は順調に昇進する。天平20年([[748年]])には[[参議]]に任ぜられ[[公卿]]に列した。
その後は、[[弁官|左中弁]]を務めたほか[[春宮坊|春宮員外亮]]のち春宮大夫として[[春宮]]・阿倍内親王に仕えながら、天平12年([[740年]])従五位上、天平15年([[743年]])[[正五位|正五位下]]、天平18年([[746年]])正五位上、天平19年([[747年]])[[従四位|従四位下]]と、[[聖武天皇|聖武朝]]の後半は順調に昇進する。天平20年([[748年]])には[[参議]]に任ぜられ[[公卿]]に列した。
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*[[天平]]7年([[735年]]) 4月23日:[[従五位|従五位下]]
*[[天平]]7年([[735年]]) 4月23日:[[従五位|従五位下]]
*天平10年([[738年]]) 6月29日:見[[出雲国#国司|出雲守]]<ref>『大日本古文書(編年文書)』2巻99頁</ref>
*天平10年([[738年]]) 6月29日:見[[出雲国#国司|出雲守]]<ref>『大日本古文書(編年文書)』2巻99頁</ref>
*天平11年([[739年]]) 6月23日:賜[[あしぎぬ|絁]]30疋、[[布]]60端、[[正税]]3万束(賞善政)
*天平11年([[739年]]) 6月23日:賜[[絁]]30疋、[[布]]60端、[[正税]]3万束(賞善政)
*天平12年([[740年]]) 1月13日:従五位上
*天平12年([[740年]]) 1月13日:従五位上
*天平15年([[743年]]) 5月5日:[[正五位|正五位下]]
*天平15年([[743年]]) 5月5日:[[正五位|正五位下]]

2020年8月27日 (木) 23:10時点における版

 
石川年足
時代 飛鳥時代末期 - 奈良時代中期
生誕 持統天皇2年(688年
死没 天平宝字6年9月30日762年10月21日
官位 正三位御史大夫
勲十二等
主君 聖武天皇孝謙天皇淳仁天皇
氏族 石川氏
父母 父:石川石足
兄弟 年足人成豊成、公成?
田口池守娘
名足永年
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石川 年足(いしかわ の としたり)は、飛鳥時代末期から奈良時代中期にかけての公卿歌人壬申の乱以降蘇我氏嫡流となった少納言蘇我安麻呂の孫、権参議石川石足の長男。官位正三位御史大夫勲等は勲十二等。

経歴

少判事を経てしばしば地方官を務めた。勲十二等の勲等を持っていることから、この間に東北地方の地方官を務めていた可能性もある。昇進は遅く、天平7年(735年)に48歳にしてようやく従五位下叙爵された。まもなく出雲守に任ぜられると、任に就いて数年にして人民は満足し安らかであったことから、天平11年(739年聖武天皇に善政を讃えられ、30疋・60端・正税3万束を与えられた。

その後は、左中弁を務めたほか春宮員外亮のち春宮大夫として春宮・阿倍内親王に仕えながら、天平12年(740年)従五位上、天平15年(743年正五位下、天平18年(746年)正五位上、天平19年(747年従四位下と、聖武朝の後半は順調に昇進する。天平20年(748年)には参議に任ぜられ公卿に列した。

天平9年(737年)に藤原四兄弟がそろって天然痘により死没していたこともあり、聖武朝の後半には藤原氏の権勢は一時的に後退していたが、父・石川石足と特に親しかった藤原武智麻呂の次男である藤原仲麻呂が台頭すると、仲麻呂の又従兄弟にあたる年足もその権勢に与ることとなる。天平勝宝元年(749年)7月の阿倍内親王の即位孝謙天皇)に伴い従四位上に叙せられ、同年8月に紫微中台が設置されると、その次官(紫微大弼)に任ぜられて仲麻呂の補佐にあたっている。

その後も、天平勝宝5年(753年従三位、天平勝宝9歳(757年中納言天平宝字2年(758年正三位と仲麻呂が権勢を振るった孝謙-淳仁朝にかけて順調に昇進している。またこの間の天平勝宝9歳(757年)から天平宝字3年(759年)にかけて『養老律令』の施行およびその施行細則である『別式』20巻の編集、官号(官職名)の唐風変更等に貢献した。特に『別式』は施行されないまま散逸したが、当時実務の参考として非常に活用され、『弘仁式』の元になったとされる[1]。天平宝字4年(760年)には73歳という高齢ながら御史大夫に至った。これは祖父・安麻呂以降の蘇我氏(石川氏)の氏人としては最も高い官職への昇進であった。

しかし、直後の光明皇后崩御孝謙上皇の病を治した道鏡の台頭等、仲麻呂の権勢に陰りが見え始めてきた天平宝字6年(762年)9月30日薨去享年75。最終官位は御史大夫正三位兼文部卿神祇伯。薨去の際、淳仁天皇から佐伯今毛人大伴家持が弔いのために遣わされた。

人物

生まれつき清廉・勤勉な性格で、政治にも習熟していた。公務の合間の読書のみを楽しみとしていたという[2]。また、『万葉集』にも和歌作品が1首残っている[3]

墓誌

石川年足墓誌(国宝)

死後1,000年以上経った1820年(文政3年)に、摂津国島上郡白髪郷(現在の大阪府高槻市真上町)の酒垂山[4](荒神山[5])より墓誌が発見され、1952年(昭和27年)に「金銅石川年足墓誌」として国宝に指定されている[6](個人所有、大阪歴史博物館寄託[7])。

官歴

注記のないものは『続日本紀』による。

系譜

脚注

  1. ^ 「石川年足とその法律的事績」
  2. ^ a b 続日本紀』天平宝字6年9月30日条
  3. ^ 『万葉集』巻19-4274
  4. ^ 石川年足の墓”. インターネット歴史館. 高槻市 (2012年). 2014年11月17日閲覧。
  5. ^ 本山コレクション金石文拓本” (PDF). 企画展 なにわ・大阪の文化力. 関西大学学術リポジトリ (2014年). 2014年11月16日閲覧。
  6. ^ 国宝指定年は『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)、毎日新聞社、2000、ほか諸資料による。
  7. ^ 【国宝】金銅石川年足墓誌”. 過去年度の展示更新. 大阪歴史博物館 (2014年). 2014年11月17日閲覧。
  8. ^ 『大日本古文書(編年文書)』2巻99頁
  9. ^ 『公卿補任』
  10. ^ 『大日本古文書(編年文書)』3巻374頁
  11. ^ 『続日本紀』延暦7年6月10日条

参考文献

  • 村上弘子「奈良時代の石川朝臣氏-石川年足を中心に―」『日本古代史論輯』桜楓社、1988年。
  • 瀧川政次郎「石川年足とその法律的事績」『歴史と地理』23巻6号、1929年。
  • 木本好信「石川年足と藤原仲麻呂政権」『奈良時代の藤原氏と諸氏族』おうふう、2004年。
  • 宇治谷孟『続日本紀 (中)』講談社学術文庫、1992年

外部リンク