コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「柏文蔚」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Cewbot (会話 | 投稿記録)
Cewbot (会話 | 投稿記録)
26行目: 26行目:
[[1904年]](光緒30年)、安徽公学の教員となる。[[1905年]](光緒31年)、[[陳独秀]]らと岳王会を組織し、南京分会分会長となった。同年9月、南京第9鎮第17協第33標第2営管帯となっていた趙声の招聘に応じ、南京で同営前隊隊官となる。趙声が第33標標統となると、柏文蔚は第2営管帯となった。
[[1904年]](光緒30年)、安徽公学の教員となる。[[1905年]](光緒31年)、[[陳独秀]]らと岳王会を組織し、南京分会分会長となった。同年9月、南京第9鎮第17協第33標第2営管帯となっていた趙声の招聘に応じ、南京で同営前隊隊官となる。趙声が第33標標統となると、柏文蔚は第2営管帯となった。


[[1906年]](光緒32年)、[[中国同盟会]]に加入した。この年の秋に、柏文蔚は同郷の[[孫毓イン|孫毓筠]]と共謀し、[[両江総督]][[端方]]を爆弾で暗殺しようと謀る。しかし失敗して東北へ逃れ、[[吉林省]]の[[胡殿甲]]が率いる吉強軍に逃げ込んだ。[[1907年]](光緒33年)、[[呉禄貞]]が吉林省の辺境事務を担当すると、呉禄貞の推挙で柏文蔚は参謀となる。[[1908年]](光緒34年)、呉禄貞が新軍第1鎮鎮統となると、柏文蔚は[[ハルビン]]屯田営管帯に任命された。[[1910年]]([[宣統]]2年)2月、[[奉天省|奉天]]督練公所参謀に任命された。
[[1906年]](光緒32年)、[[中国同盟会]]に加入した。この年の秋に、柏文蔚は同郷の[[孫毓筠]]と共謀し、[[両江総督]][[端方]]を爆弾で暗殺しようと謀る。しかし失敗して東北へ逃れ、[[吉林省]]の[[胡殿甲]]が率いる吉強軍に逃げ込んだ。[[1907年]](光緒33年)、[[呉禄貞]]が吉林省の辺境事務を担当すると、呉禄貞の推挙で柏文蔚は参謀となる。[[1908年]](光緒34年)、呉禄貞が新軍第1鎮鎮統となると、柏文蔚は[[ハルビン]]屯田営管帯に任命された。[[1910年]]([[宣統]]2年)2月、[[奉天省|奉天]]督練公所参謀に任命された。


=== 辛亥革命、二次革命 ===
=== 辛亥革命、二次革命 ===
57行目: 57行目:
|-
|-
! {{CHN1912}}([[北京政府]])
! {{CHN1912}}([[北京政府]])
{{先代次代|[[安徽省 (中華民国)|安徽]]都督|<small>[[1912年]]4月 - [[1913年]]6月<br>(1912年7月まで署理)</small>|[[孫毓イン|孫毓{{lang|zh|}}]]|[[孫多森]]}}
{{先代次代|[[安徽省 (中華民国)|安徽]]都督|<small>[[1912年]]4月 - [[1913年]]6月<br>(1912年7月まで署理)</small>|[[孫毓筠]]|[[孫多森]]}}
|}
|}



2020年8月27日 (木) 22:32時点における版

柏文蔚
プロフィール
出生: 1876年6月8日
光緒2年5月17日)
死去: 1947年民国36年)4月26日
中華民国の旗 中華民国上海市
出身地: 清の旗 安徽省鳳陽府寿州
職業: 軍人・政治家・革命家
各種表記
繁体字 柏文蔚
簡体字 柏文蔚
拼音 Bǎi Wénwèi
ラテン字 Pai Wen-wei
和名表記: はく ぶんい
発音転記: バイ ウェンウェイ
テンプレートを表示

柏 文蔚(はく ぶんい)は清末民初の軍人・政治家・革命家。中国同盟会以来の革命派人士で、中国国民党でも要人となった。烈武

事跡

清末の活動

1896年光緒24年)、秀才となり、その後、安徽大学堂に入学した。1902年(光緒28年)、趙声南京で強国会を組織し、反清を謀る。しかし事が洩れ失敗し、安徽省へ戻って安徽武備学堂に入学した。

1904年(光緒30年)、安徽公学の教員となる。1905年(光緒31年)、陳独秀らと岳王会を組織し、南京分会分会長となった。同年9月、南京第9鎮第17協第33標第2営管帯となっていた趙声の招聘に応じ、南京で同営前隊隊官となる。趙声が第33標標統となると、柏文蔚は第2営管帯となった。

1906年(光緒32年)、中国同盟会に加入した。この年の秋に、柏文蔚は同郷の孫毓筠と共謀し、両江総督端方を爆弾で暗殺しようと謀る。しかし失敗して東北へ逃れ、吉林省胡殿甲が率いる吉強軍に逃げ込んだ。1907年(光緒33年)、呉禄貞が吉林省の辺境事務を担当すると、呉禄貞の推挙で柏文蔚は参謀となる。1908年(光緒34年)、呉禄貞が新軍第1鎮鎮統となると、柏文蔚はハルビン屯田営管帯に任命された。1910年宣統2年)2月、奉天督練公所参謀に任命された。

辛亥革命、二次革命

1911年(宣統3年)夏、馮徳麟藍天蔚らと東北での蜂起を計画した。しかし同年10月10日に武昌起義が勃発すると、柏文蔚は南へ戻り、南京攻略戦に参加した。同年11月、柏文蔚は寧軍第1軍統制を号している。

1912年民国元年)1月に南京で中華民国臨時政府が成立すると、3月、柏文蔚の軍は浦口駐屯の中華民国第1軍となり、第1師(駐浦口)、第4師(駐安徽臨淮関)、第9師(駐徐州)を隷下に置いた[1]。4月、柏文蔚は安徽省の政治的混乱を鎮圧するために、軍を率いて安徽省に入る。そして孫毓筠の後任として署理安徽都督兼民政長に任命された。7月、柏文蔚は正式に安徽都督に任命され、9月に陸軍中将位を授与された。柏文蔚は、安徽省の統治者として、アヘン禁止などの民政改革に取り組んでいる。

1913年(民国2年)5月、柏文蔚は湖南都督譚延闓江西都督李烈鈞広東都督胡漢民と連名で、袁世凱に対して善後大借款に反対する電報を打った。これにより6月、袁世凱は柏文蔚・李烈鈞・胡漢民の3都督を罷免し、あわせて軍を南進させた。7月、柏文蔚ら反袁派の都督は省の独立を宣言、挙兵した。これが二次革命(第二革命)である。しかし、まもなく反袁派は敗北し、柏文蔚は日本へ逃亡した。

1914年(民国3年)、中華革命党に入党する。1915年(民国4年)12月に護国戦争第三革命)が勃発すると、柏文蔚は南洋で護国軍のために資金募集に従事した。1916年(民国5年)2月29日に帰国し、上海に到着した。

護法戦争以降

1918年(民国7年)10月、孫文護法戦争を発動すると、柏文蔚はこれを支持し、靖国軍川鄂聯軍前敵総指揮に任命された。その後も孫文の下で軍職を歴任し、1921年(民国10年)5月、総統府顧問に任命される。1922年(民国11年)4月、長江上游招討使に任命された。1924年(民国13年)1月には北伐討賊軍第2軍軍長となり、この月には、中国国民党の中央執行委員にも選出されている。

孫文死後の1926年(民国15年)8月、国民革命軍第33軍軍長に任命され、安徽省各地を転戦した。1927年(民国16年)4月12日の、蒋介石による反共クーデターでは、柏文蔚はこれを非難する声明を発した。9月、寧漢合流後に、第33軍軍長を罷免され、国民政府委員に異動する。

1928年(民国17年)8月、柏文蔚は反蒋介石の立場から、中国国民党改組同志会に加わったが、11月までに国民党を除名されてしまう。1930年(民国19年)の反蒋各派による北平拡大会議でも常務委員として活動したが、蒋介石の前に敗北した。1931年(民国20年)、国民党に復籍している。その後は馮玉祥らと組んで、国共合作や対日抗戦を主張した。

1947年(民国36年)に引退し、同年4月26日に柏文蔚は上海で死去した。清貧な生活を維持し続け、困窮の中での病没であった。享年72(満70歳)。

脚注

  1. ^ 第三节 民国时期驻军”. 南京市志. 2019年6月1日閲覧。

参考文献

  • 劉敬坤「柏文蔚」中国社会科学院近代史研究所『民国人物伝 第12巻』中華書局、2005年。ISBN 7-101-02993-0 
  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
 中華民国の旗 中華民国北京政府
先代
孫毓筠
安徽都督
1912年4月 - 1913年6月
(1912年7月まで署理)
次代
孫多森