コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「馮僕」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: 盎碭瞀睺皶畯を含む記事の改名に伴うリンク修正依頼 (馮盎) - log
Cewbot (会話 | 投稿記録)
2行目: 2行目:


== 経歴 ==
== 経歴 ==
[[梁 (南朝)|南朝梁]]の[[高涼郡]][[太守]]の馮宝([[化州 (広東省)|羅州]]刺史の馮融の子)と[[洗夫人]]の子として生まれた。[[558年]]([[永定 (陳)|永定]]2年)、[[嶺南]]の首領たちを率いて陳に入朝すると、[[陽春郡]]太守に任じられた。[[569年]]([[太建]]元年)、[[広州 (広東省)|広州]][[刺史]]の[[欧陽コツ|欧陽紇]]が反乱を計画し、馮僕を高安に召し出し、一緒に反乱をおこすよう説得した。馮僕は使者を国元に帰らせて母に知らせると、洗夫人は兵を動員して郡境を封鎖し、陳の将軍の[[章昭達]]を迎えて反乱討伐に協力した。馮僕は母の功により、信都侯に封じられ、平越中郎将の位を加えられ、[[石竜郡]]太守に転じた。
[[梁 (南朝)|南朝梁]]の[[高涼郡]][[太守]]の馮宝([[化州 (広東省)|羅州]]刺史の馮融の子)と[[洗夫人]]の子として生まれた。[[558年]]([[永定 (陳)|永定]]2年)、[[嶺南]]の首領たちを率いて陳に入朝すると、[[陽春郡]]太守に任じられた。[[569年]]([[太建]]元年)、[[広州 (広東省)|広州]][[刺史]]の[[欧陽紇]]が反乱を計画し、馮僕を高安に召し出し、一緒に反乱をおこすよう説得した。馮僕は使者を国元に帰らせて母に知らせると、洗夫人は兵を動員して郡境を封鎖し、陳の将軍の[[章昭達]]を迎えて反乱討伐に協力した。馮僕は母の功により、信都侯に封じられ、平越中郎将の位を加えられ、[[石竜郡]]太守に転じた。


[[至徳 (陳)|至徳]]年間に死去した。隋の[[楊堅|文帝]]のとき、[[瓊州|崖州]]総管の位を追贈され、宋康郡公に追封された。
[[至徳 (陳)|至徳]]年間に死去した。隋の[[楊堅|文帝]]のとき、[[瓊州|崖州]]総管の位を追贈され、宋康郡公に追封された。

2020年8月27日 (木) 22:28時点における版

馮僕(ふう ぼく、550年 - 585年頃)は、南朝陳の人物。本貫長楽郡信都県北燕の第2代天王馮跋の従子の馮業(馮万泥の子)の玄孫。

経歴

南朝梁高涼郡太守の馮宝(羅州刺史の馮融の子)と洗夫人の子として生まれた。558年永定2年)、嶺南の首領たちを率いて陳に入朝すると、陽春郡太守に任じられた。569年太建元年)、広州刺史欧陽紇が反乱を計画し、馮僕を高安に召し出し、一緒に反乱をおこすよう説得した。馮僕は使者を国元に帰らせて母に知らせると、洗夫人は兵を動員して郡境を封鎖し、陳の将軍の章昭達を迎えて反乱討伐に協力した。馮僕は母の功により、信都侯に封じられ、平越中郎将の位を加えられ、石竜郡太守に転じた。

至徳年間に死去した。隋の文帝のとき、崖州総管の位を追贈され、宋康郡公に追封された。

子女

伝記資料