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[[大将軍]][[梁冀]]の公府に招かれ、後に[[豫州]][[刺史]]・[[河内郡 (河南省)|河内]][[太守]]を歴任した。賢を好み士を愛し、其の才を抜擢し善を薦めた。毎年、官吏に推薦した人を招聘し、奥の母屋に上がらせ、一緒に宴会をした。こういった事は四回以上と複数回あった。贈り物には満足のいくよう手がかけられていた。またその父子兄弟まで推薦し、ことのほか優しく接した。周景は後に将作大匠に選出された。梁冀が処罰されるに及び、周景はかつて招聘受けて上司と部下の関係になったことがあったため免官され禁錮となった。 |
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後、朝廷は周景がこれまで正しく忠実だったのは明らかなので、[[尚書令]]とした。その後、[[太僕]]、[[衛尉]]をつとめた。[[163年]]([[延熹]]6年)12月<ref name="kantei">『[[後漢書]]』桓帝紀</ref>、[[劉寵 (東萊)|劉寵]]に代わり[[司空]]となった。この時宦官は列位を子弟でかため塞いだ。周景は太尉[[楊秉]]と宦官の行いを皇帝に奏した。将軍、州牧、太守、五十余人が罷免された。中常侍である防東の[[侯覧]]、東武陽侯[[ |
後、朝廷は周景がこれまで正しく忠実だったのは明らかなので、[[尚書令]]とした。その後、[[太僕]]、[[衛尉]]をつとめた。[[163年]]([[延熹]]6年)12月<ref name="kantei">『[[後漢書]]』桓帝紀</ref>、[[劉寵 (東萊)|劉寵]]に代わり[[司空]]となった。この時宦官は列位を子弟でかため塞いだ。周景は太尉[[楊秉]]と宦官の行いを皇帝に奏した。将軍、州牧、太守、五十余人が罷免された。中常侍である防東の[[侯覧]]、東武陽侯[[具瑗]]は皆免職され罰せられた。朝廷はこれを称えないことはなかった。 |
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[[165年]](延熹8年)10月<ref name="kantei"/>、地震を理由に司空を罷免された。[[166年]](延熹9年)9月<ref name="kantei"/>、[[陳蕃]]に代わって[[太尉]]となった。 |
2020年8月26日 (水) 23:25時点における版
周 景(しゅう けい、? - 168年)は、後漢の官僚。字は仲饗。揚州廬江郡舒県(現在の安徽省六安市舒城県)の人。祖父は周栄。父は周興。子は周崇、周忠。甥は周異、周異。孫は周暉。従孫は周瑜。
生涯
大将軍梁冀の公府に招かれ、後に豫州刺史・河内太守を歴任した。賢を好み士を愛し、其の才を抜擢し善を薦めた。毎年、官吏に推薦した人を招聘し、奥の母屋に上がらせ、一緒に宴会をした。こういった事は四回以上と複数回あった。贈り物には満足のいくよう手がかけられていた。またその父子兄弟まで推薦し、ことのほか優しく接した。周景は後に将作大匠に選出された。梁冀が処罰されるに及び、周景はかつて招聘受けて上司と部下の関係になったことがあったため免官され禁錮となった。
後、朝廷は周景がこれまで正しく忠実だったのは明らかなので、尚書令とした。その後、太僕、衛尉をつとめた。163年(延熹6年)12月[1]、劉寵に代わり司空となった。この時宦官は列位を子弟でかため塞いだ。周景は太尉楊秉と宦官の行いを皇帝に奏した。将軍、州牧、太守、五十余人が罷免された。中常侍である防東の侯覧、東武陽侯具瑗は皆免職され罰せられた。朝廷はこれを称えないことはなかった。
165年(延熹8年)10月[1]、地震を理由に司空を罷免された。166年(延熹9年)9月[1]、陳蕃に代わって太尉となった。
168年(建寧元年)4月戊辰[2]に亡くなった。霊帝擁立の議論に参与した功績により、安陽郷侯に追封された。
家系図
周栄 | 周興 | 周景[ft 1][ft 2] | 周崇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
周忠 | 周暉 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
周異 | 周峻 | 周護 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
周尚[ft 3] | 周瑜 | 周循 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
周胤 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
子女
- 周崇(長子、後嗣、安陽郷侯、甘陵国相)
- 周忠(次子、字は嘉謀、大司農、太尉・録尚書事、衛尉)
脚注
参考文献
- 『後漢書』巻45 列伝第35