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翌[[1928年]](民国17年)になると[[中国国民党]]の[[北伐 (中国国民党)|北伐]]軍が優勢となる。同年6月、張作霖は逃走中に[[関東軍]]に爆殺された([[張作霖爆殺事件]])。そのため于芷山は、奉天派の旧拠点に退却した。その後、于芷山は[[張学良]]の下で東北東辺鎮守使、東北辺防軍司令長官公署軍事参議官となり、奉天省東北道の20県余りを統括している<ref name=Wang/><ref name=Xu/>。
翌[[1928年]](民国17年)になると[[中国国民党]]の[[北伐 (中国国民党)|北伐]]軍が優勢となる。同年6月、張作霖は逃走中に[[関東軍]]に爆殺された([[張作霖爆殺事件]])。そのため于芷山は、奉天派の旧拠点に退却した。その後、于芷山は[[張学良]]の下で東北東辺鎮守使、東北辺防軍司令長官公署軍事参議官となり、奉天省東北道の20県余りを統括している<ref name=Wang/><ref name=Xu/>。


[[満州事変]]後の[[1931年]](民国20年)10月15日、于芷山は「東辺(道)保安司令」を自称、中華民国からの独立を宣言した<ref>「残存実力派の雄 于氏独立を宣言」『[[東京朝日新聞]]』昭和6年(1931年)10月17日。</ref>。満州国成立後の翌[[1932年]]([[大同 (満州)|大同]]元年)3月14日、奉天省警備司令官に任命された<ref>「東省特別区長官に張景恵氏」『東京朝日新聞』昭和7年(1932年)3月15日。</ref>。[[1934年]]([[康徳]]元年)7月、満州帝国第1軍管区司令官に任ぜられ、翌[[1935年]](康徳2年)には陸軍上将に昇進した<ref name=Xu/>。同年5月21日、軍政部大臣に任ぜられ<ref>「鄭総理辞表を捧呈 張景恵氏に大命降下」『東京朝日新聞』昭和15年(1935年)5月22日夕刊。</ref>、[[1937年]](康徳4年)7月1日、軍政部改組に伴い治安部大臣となった<ref>「満州の人事異動 行革に伴い七月発令」『東京朝日新聞』昭和12年(1937年)6月12日、1面。</ref>。[[1939年]](康徳6年)4月24日、治安部大臣を退任して[[満州国参議府|参議府]]参議に転じる<ref>「満州治安部大臣更迭」『読売新聞』昭和14年(1939年)4月25日。</ref>。[[1942年]](康徳9年)9月28日に参議を辞任し<ref>「共栄圏の重責完遂へ 満州国大臣全面更迭」『朝日新聞』昭和17年(1942年)9月29日夕刊、1面</ref>、翌29日に[[張海鵬]]・[[于チン澂|于琛澂]]と共に軍事諮議官に任命された<ref> 「駐日満洲国大使 王允卿氏任命さる」『朝日新聞』昭和17年(1942年)9月30日夕刊、1面。</ref>。
[[満州事変]]後の[[1931年]](民国20年)10月15日、于芷山は「東辺(道)保安司令」を自称、中華民国からの独立を宣言した<ref>「残存実力派の雄 于氏独立を宣言」『[[東京朝日新聞]]』昭和6年(1931年)10月17日。</ref>。満州国成立後の翌[[1932年]]([[大同 (満州)|大同]]元年)3月14日、奉天省警備司令官に任命された<ref>「東省特別区長官に張景恵氏」『東京朝日新聞』昭和7年(1932年)3月15日。</ref>。[[1934年]]([[康徳]]元年)7月、満州帝国第1軍管区司令官に任ぜられ、翌[[1935年]](康徳2年)には陸軍上将に昇進した<ref name=Xu/>。同年5月21日、軍政部大臣に任ぜられ<ref>「鄭総理辞表を捧呈 張景恵氏に大命降下」『東京朝日新聞』昭和15年(1935年)5月22日夕刊。</ref>、[[1937年]](康徳4年)7月1日、軍政部改組に伴い治安部大臣となった<ref>「満州の人事異動 行革に伴い七月発令」『東京朝日新聞』昭和12年(1937年)6月12日、1面。</ref>。[[1939年]](康徳6年)4月24日、治安部大臣を退任して[[満州国参議府|参議府]]参議に転じる<ref>「満州治安部大臣更迭」『読売新聞』昭和14年(1939年)4月25日。</ref>。[[1942年]](康徳9年)9月28日に参議を辞任し<ref>「共栄圏の重責完遂へ 満州国大臣全面更迭」『朝日新聞』昭和17年(1942年)9月29日夕刊、1面</ref>、翌29日に[[張海鵬]]・[[于琛澂]]と共に軍事諮議官に任命された<ref> 「駐日満洲国大使 王允卿氏任命さる」『朝日新聞』昭和17年(1942年)9月30日夕刊、1面。</ref>。


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2020年8月26日 (水) 11:52時点における版

于芷山
『満洲建国十年史』(1942年)
プロフィール
出生: 1882年光緒8年)[1]
死去: 1951年5月
中華人民共和国の旗 中国遼寧省撫順市
出身地: 清の旗 盛京将軍管轄区錦州府広寧県台安
職業: 軍人
各種表記
繁体字 于芷山
簡体字 于芷山
拼音 Yú Zhǐshān
ラテン字 Yü Chih-shan
和名表記: う しざん
発音転記: ユー・ジーシャン
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于 芷山(う しざん)は、中華民国満州国の軍人。当初は北京政府奉天派の軍人で、後に満州国で要職を務めた。名は世文だが、の芷山で知られる。瀾波

事績

若年時代は緑林の一味として活動していた。1903年光緒29年)に清朝に投降して、以後清朝の軍人として経歴を重ねる。1914年民国3年)4月、東三省講武堂に入学した。1920年(民国9年)2月、歩兵上校団長に任ぜられている[2]

1922年民国11年)、東三省陸軍第5混成旅旅長となった。1924年(民国13年)、東北独立騎兵第8旅旅長となり、張作霖の衛隊司令をつとめた。1925年(民国14年)、郭松齢討伐の軍功により師長に昇進している。1927年(民国16年)6月、張の侍従武官長となり、陸軍中将位を授与された[3]。10月、于芷山は第5方面軍第30軍軍長として山西省北部の閻錫山を攻撃し、勝利した[2][4]

1928年(民国17年)になると中国国民党北伐軍が優勢となる。同年6月、張作霖は逃走中に関東軍に爆殺された(張作霖爆殺事件)。そのため于芷山は、奉天派の旧拠点に退却した。その後、于芷山は張学良の下で東北東辺鎮守使、東北辺防軍司令長官公署軍事参議官となり、奉天省東北道の20県余りを統括している[2][4]

満州事変後の1931年(民国20年)10月15日、于芷山は「東辺(道)保安司令」を自称、中華民国からの独立を宣言した[5]。満州国成立後の翌1932年大同元年)3月14日、奉天省警備司令官に任命された[6]1934年康徳元年)7月、満州帝国第1軍管区司令官に任ぜられ、翌1935年(康徳2年)には陸軍上将に昇進した[4]。同年5月21日、軍政部大臣に任ぜられ[7]1937年(康徳4年)7月1日、軍政部改組に伴い治安部大臣となった[8]1939年(康徳6年)4月24日、治安部大臣を退任して参議府参議に転じる[9]1942年(康徳9年)9月28日に参議を辞任し[10]、翌29日に張海鵬于琛澂と共に軍事諮議官に任命された[11]

満州国崩壊後は北平に隠れ住んでいたが、1949年10月の中華人民共和国成立後に逮捕された。1951年5月、撫順戦犯管理所内で病没[4][12]。享年70。

脚注

  1. ^ 徐主編(2007)、28頁による。王ほか主編(1996)、23頁は「1879年」としている。
  2. ^ a b c 王ほか主編(1996)、23頁。
  3. ^ 陸軍中将位については任命日が6月6日と記録されている。『政府公報』第3996号、1927年(民国16年)6月7日。
  4. ^ a b c d 徐主編(2007)、28頁。
  5. ^ 「残存実力派の雄 于氏独立を宣言」『東京朝日新聞』昭和6年(1931年)10月17日。
  6. ^ 「東省特別区長官に張景恵氏」『東京朝日新聞』昭和7年(1932年)3月15日。
  7. ^ 「鄭総理辞表を捧呈 張景恵氏に大命降下」『東京朝日新聞』昭和15年(1935年)5月22日夕刊。
  8. ^ 「満州の人事異動 行革に伴い七月発令」『東京朝日新聞』昭和12年(1937年)6月12日、1面。
  9. ^ 「満州治安部大臣更迭」『読売新聞』昭和14年(1939年)4月25日。
  10. ^ 「共栄圏の重責完遂へ 満州国大臣全面更迭」『朝日新聞』昭和17年(1942年)9月29日夕刊、1面
  11. ^ 「駐日満洲国大使 王允卿氏任命さる」『朝日新聞』昭和17年(1942年)9月30日夕刊、1面。
  12. ^ 王ほか主編(1996)、24頁。

参考文献

  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  満州国
先代
張景恵
軍政部大臣
1935年7月 - 1937年7月
次代
(治安部大臣に改組)
先代
(軍政部大臣から改組)
治安部大臣
1937年7月 - 1939年4月
次代
于琛澂