コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「張佩綸」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Cewbot (会話 | 投稿記録)
タグ: 手動差し戻し
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: 臏珖玦玠猨琛を含む記事の改名に伴うリンク修正依頼 (陳宝琛) - log
3行目: 3行目:


== 生涯 ==
== 生涯 ==
[[1871年]]に[[進士]]となり、朝廷では[[李鴻藻]]・[[潘祖蔭]]・[[張之洞]]・[[陳宝チン|陳宝琛]]・[[宝廷]]らと共に「清流」派に属した。[[李鴻章]]や[[ロシア帝国|ロシア]]に対して弱腰の姿勢をとった[[崇厚]]らを弾劾したため、弾劾大臣の異名をとった。また[[1882年]]の[[壬午事変]]の直後、[[翰林院]]の張佩綸は長文よりなる東征論(日本討伐論)を上奏している。それに対し、李鴻章は時期尚早とのコメントを付している<ref>岡崎(2009)</ref>。
[[1871年]]に[[進士]]となり、朝廷では[[李鴻藻]]・[[潘祖蔭]]・[[張之洞]]・[[陳宝琛]]・[[宝廷]]らと共に「清流」派に属した。[[李鴻章]]や[[ロシア帝国|ロシア]]に対して弱腰の姿勢をとった[[崇厚]]らを弾劾したため、弾劾大臣の異名をとった。また[[1882年]]の[[壬午事変]]の直後、[[翰林院]]の張佩綸は長文よりなる東征論(日本討伐論)を上奏している。それに対し、李鴻章は時期尚早とのコメントを付している<ref>岡崎(2009)</ref>。


[[File:張佩綸.jpg|thumb|張佩綸の肖像画(『[[清代学者象伝]]』)]]
[[File:張佩綸.jpg|thumb|張佩綸の肖像画(『[[清代学者象伝]]』)]]

2020年8月26日 (水) 11:51時点における版

張佩綸

張 佩綸(ちょう はいりん、Zhang Peilun1848年1903年)は、末の官僚。字は幼樵、号は蕢斎直隷豊潤出身。

生涯

1871年進士となり、朝廷では李鴻藻潘祖蔭張之洞陳宝琛宝廷らと共に「清流」派に属した。李鴻章ロシアに対して弱腰の姿勢をとった崇厚らを弾劾したため、弾劾大臣の異名をとった。また1882年壬午事変の直後、翰林院の張佩綸は長文よりなる東征論(日本討伐論)を上奏している。それに対し、李鴻章は時期尚早とのコメントを付している[1]

張佩綸の肖像画(『清代学者象伝』)

1884年から1885年にかけての清仏戦争の際には福建軍務会弁となった。しかし詹天佑らの警告を無視してフランス軍を軽侮したため、馬江海戦で福建海軍は全滅した。その上、敗戦後に何如璋と共に逃走したために免職となり、軍務に服することを命じられた。人々は、張佩綸が日頃から軍事を好んで語ったのに関わらず、いざ兵を指揮すると軍を捨てて逃亡したために「馬謖」とそしった。

軍役が終了した張佩綸に救いの手を差しのべたのはかつての政敵李鴻章であった。彼は張佩綸の才能を高く評価し、自分の娘を嫁がせた。とはいえ李鴻章は身内のために利益を図っているとの疑いを避けるために、あえて張佩綸を推挙することはなかった。その李鴻章が1901年に死去すると張佩綸の官界への復帰は絶望的となり、1903年に庶人のまま憂悶のうちに死去した。作家の張愛玲は孫に当たる。

脚注

  1. ^ 岡崎(2009)

参考文献