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「周留城」の版間の差分

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'''周留城'''({{要出典|スル|date=2019年3月}}じょう、{{lang-ko|주류성}}(チュリュソン))、'''支羅城'''({{要出典|シラ|date=2019年3月}}じょう、{{lang|ko|지라성}}(チラソン))、'''州柔城'''({{要出典|スヌ|date=2019年3月}}じょう、つぬさし<ref name="hikun">『[[日本書紀]]』の秘訓(『[[釈日本紀]]』による)に基づく訓み。「周留」「支羅」の漢字表記は『[[三国史記]]』に、「州柔」「疎留」の漢字表記は『日本書紀』に基づく。参考:{{Cite book|和書|last= |first= |author= |authorlink= |coauthors= |translator=井上光貞監訳、佐伯有清・笹山晴生 |editor= |others= |title=日本書紀III |origdate= |origyear= |url= |format= |accessdate= |edition= |date= |year=2003 |publisher=[[中央公論新社]] |location= |series=中公クラシックス |language= |id= |isbn=4121600592 |oclc= |doi= |volume= |page= |pages= |chapter= |chapterurl= |quote= |ref= }}</ref>、 {{lang|ko|주유성}}(チュユソン))または'''疎留城'''(そりゅうじょう、そるさし<ref name="hikun" />、{{lang|ko|소류성}}(ソリュソン))は[[朝鮮半島]]の現在の[[忠清南道]]にあった[[百済]]の[[城]]。
'''周留城'''({{要出典|スル|date=2019年3月}}じょう、{{lang-ko|주류성}}(チュリュソン))、'''支羅城'''({{要出典|シラ|date=2019年3月}}じょう、{{lang|ko|지라성}}(チラソン))、'''州柔城'''({{要出典|スヌ|date=2019年3月}}じょう、つぬさし<ref name="hikun">『[[日本書紀]]』の秘訓(『[[釈日本紀]]』による)に基づく訓み。「周留」「支羅」の漢字表記は『[[三国史記]]』に、「州柔」「疎留」の漢字表記は『日本書紀』に基づく。参考:{{Cite book|和書|last= |first= |author= |authorlink= |coauthors= |translator=井上光貞監訳、佐伯有清・笹山晴生 |editor= |others= |title=日本書紀III |origdate= |origyear= |url= |format= |accessdate= |edition= |date= |year=2003 |publisher=[[中央公論新社]] |location= |series=中公クラシックス |language= |id= |isbn=4121600592 |oclc= |doi= |volume= |page= |pages= |chapter= |chapterurl= |quote= |ref= }}</ref>、 {{lang|ko|주유성}}(チュユソン))または'''疎留城'''(そりゅうじょう、そるさし<ref name="hikun" />、{{lang|ko|소류성}}(ソリュソン))は[[朝鮮半島]]の現在の[[忠清南道]]にあった[[百済]]の[[城]]。


百済が[[新羅]]と[[唐]]により滅ぼされた後、百済の将軍の[[鬼室福信]]と僧の[[道チン|道琛]]が[[百済#百済復興運動|百済復興運動]]の拠点とした。[[白村江の戦い]]での陸戦の主戦場となった。
百済が[[新羅]]と[[唐]]により滅ぼされた後、百済の将軍の[[鬼室福信]]と僧の[[道琛]]が[[百済#百済復興運動|百済復興運動]]の拠点とした。[[白村江の戦い]]での陸戦の主戦場となった。


その位置については多くの説があるが、白村江との関係で、[[錦江 (韓国)|錦江]]下流北側の山岳地帯にあったと推定されている。
その位置については多くの説があるが、白村江との関係で、[[錦江 (韓国)|錦江]]下流北側の山岳地帯にあったと推定されている。

2020年8月26日 (水) 11:49時点における版

周留城スル[要出典]じょう、朝鮮語: 주류성(チュリュソン))、支羅城シラ[要出典]じょう、지라성(チラソン))、州柔城スヌ[要出典]じょう、つぬさし[1]주유성(チュユソン))または疎留城(そりゅうじょう、そるさし[1]소류성(ソリュソン))は朝鮮半島の現在の忠清南道にあった百済

百済が新羅により滅ぼされた後、百済の将軍の鬼室福信と僧の道琛百済復興運動の拠点とした。白村江の戦いでの陸戦の主戦場となった。

その位置については多くの説があるが、白村江との関係で、錦江下流北側の山岳地帯にあったと推定されている。

脚注

  1. ^ a b 日本書紀』の秘訓(『釈日本紀』による)に基づく訓み。「周留」「支羅」の漢字表記は『三国史記』に、「州柔」「疎留」の漢字表記は『日本書紀』に基づく。参考:井上光貞監訳、佐伯有清・笹山晴生 訳『日本書紀III』中央公論新社〈中公クラシックス〉、2003年。ISBN 4121600592