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「路恃慶」の版間の差分

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== 経歴 ==
== 経歴 ==
陽平郡[[太守]]の路綽の孫。[[広平郡]]の[[宋翻]]とともに名を知られ、[[相州]][[刺史]]の[[李安世]]の推薦を受けた。[[太和 (北魏)|太和]]年間、奉朝請に任じられた。しばらくして尚書儀曹郎となり、左民郎に転じ、[[潁川郡]]太守を代行した。安定王[[元燮]]の下で征虜府長史をつとめた。まもなく母が死去し、服喪のために職を辞した。河間王[[元チン|元琛]]の下で長史となった。元琛は勝手きままにふるまったので、恃慶は事あるごとに苦言を呈した。享年48で死去した。[[左将軍]]・[[安州]]刺史の位を追贈された。[[諡]]は襄といった。
陽平郡[[太守]]の路綽の孫。[[広平郡]]の[[宋翻]]とともに名を知られ、[[相州]][[刺史]]の[[李安世]]の推薦を受けた。[[太和 (北魏)|太和]]年間、奉朝請に任じられた。しばらくして尚書儀曹郎となり、左民郎に転じ、[[潁川郡]]太守を代行した。安定王[[元燮]]の下で征虜府長史をつとめた。まもなく母が死去し、服喪のために職を辞した。河間王[[元琛]]の下で長史となった。元琛は勝手きままにふるまったので、恃慶は事あるごとに苦言を呈した。享年48で死去した。[[左将軍]]・[[安州]]刺史の位を追贈された。[[諡]]は襄といった。


子の路祖璧は、給事中となった。
子の路祖璧は、給事中となった。

2020年8月26日 (水) 11:45時点における版

路 恃慶(ろ たいけい、生没年不詳)は、北魏の人物。は伯瑞。本貫陽平郡清淵県

経歴

陽平郡太守の路綽の孫。広平郡宋翻とともに名を知られ、相州刺史李安世の推薦を受けた。太和年間、奉朝請に任じられた。しばらくして尚書儀曹郎となり、左民郎に転じ、潁川郡太守を代行した。安定王元燮の下で征虜府長史をつとめた。まもなく母が死去し、服喪のために職を辞した。河間王元琛の下で長史となった。元琛は勝手きままにふるまったので、恃慶は事あるごとに苦言を呈した。享年48で死去した。左将軍安州刺史の位を追贈された。は襄といった。

子の路祖璧は、給事中となった。

伝記資料