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「三時知恩寺」の版間の差分

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== 歴史 ==
== 歴史 ==
[[応永]]年間([[1394年]] - [[1428年]])[[北朝 (日本)|北朝]]4代[[後光厳天皇]]の[[皇女]]見子内親王が北朝3代[[崇光天皇]]の[[御所]]で[[一条通|一条]][[西洞院通|西洞院]]にあった入江殿を寺に改めたのに始まる。[[足利義満]]の娘の[[入江殿聖仙|覚窓性仙尼]](性善尼とも)を開山とした。見子内親王は仏教への信仰が篤く、[[俊じょう|俊芿]](しゅんじょう)が[[宋 (王朝)|宋]]から将来した[[善導]]大師の自作と伝える像を宮中から賜って当寺の本尊としたという。
[[応永]]年間([[1394年]] - [[1428年]])[[北朝 (日本)|北朝]]4代[[後光厳天皇]]の[[皇女]]見子内親王が北朝3代[[崇光天皇]]の[[御所]]で[[一条通|一条]][[西洞院通|西洞院]]にあった入江殿を寺に改めたのに始まる。[[足利義満]]の娘の[[入江殿聖仙|覚窓性仙尼]](性善尼とも)を開山とした。見子内親王は仏教への信仰が篤く、[[俊芿]](しゅんじょう)が[[宋 (王朝)|宋]]から将来した[[善導]]大師の自作と伝える像を宮中から賜って当寺の本尊としたという。


[[後柏原天皇]]の代に三時知恩寺と称されるようになったが、これは宮中における六時勤行(1日6回の勤行)のうち昼間の3回をこの寺で行うようになったことによるとされる。[[正親町天皇]]の代に現在地へ移転した。
[[後柏原天皇]]の代に三時知恩寺と称されるようになったが、これは宮中における六時勤行(1日6回の勤行)のうち昼間の3回をこの寺で行うようになったことによるとされる。[[正親町天皇]]の代に現在地へ移転した。

2020年8月26日 (水) 05:44時点における版

三時知恩寺
所在地 京都府京都市上京区新町通今出川上ル上立売町4
位置 北緯35度1分52.8秒 東経135度45分24.3秒 / 北緯35.031333度 東経135.756750度 / 35.031333; 135.756750座標: 北緯35度1分52.8秒 東経135度45分24.3秒 / 北緯35.031333度 東経135.756750度 / 35.031333; 135.756750
山号 なし
宗派 浄土宗
本尊 阿弥陀如来
開基 見子内親王、覚窓性善尼(開山)
別称 入江御所
法人番号 7130005000125 ウィキデータを編集
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三時知恩寺(さんじちおんじ)は、京都市上京区上立売町にある浄土宗寺院尼寺)。門跡寺院。本尊は阿弥陀如来

歴史

応永年間(1394年 - 1428年北朝4代後光厳天皇皇女見子内親王が北朝3代崇光天皇御所一条西洞院にあった入江殿を寺に改めたのに始まる。足利義満の娘の覚窓性仙尼(性善尼とも)を開山とした。見子内親王は仏教への信仰が篤く、俊芿(しゅんじょう)がから将来した善導大師の自作と伝える像を宮中から賜って当寺の本尊としたという。

後柏原天皇の代に三時知恩寺と称されるようになったが、これは宮中における六時勤行(1日6回の勤行)のうち昼間の3回をこの寺で行うようになったことによるとされる。正親町天皇の代に現在地へ移転した。

文化財

重要文化財
  • 絹本着色近衛予楽院(近衛家熙)像(附:自筆阿弥陀経)

交通

外部リンク