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武人として一生を過ごしたが、晩年になってからは学問もこなせるようになったという。皇帝の[[外戚]]となったことは負担であったらしく、[[276年]]に娘の[[楊芷]]が皇后になって権力を手にした[[楊駿]]の傲慢な態度を非難する一方で、外戚となって滅びなかった家はないと悲嘆している。 |
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2020年8月26日 (水) 05:39時点における版
胡 奮(こ ふん、? - 288年)は、中国三国時代末期から西晋にかけての武人。魏・西晋に仕えた。字は玄威。雍州安定郡臨涇県の人。父は胡遵。兄に胡広、弟に胡烈・胡岐。甥に胡淵。子は男子・女子(胡芳)1人。
明朗で、知略に優れ、軍事を好んだ。胡氏は父以来の武人の家系であった。曹叡(明帝)の時代、司馬懿の公孫淵討伐に従い校尉となった。また曹髦(高貴郷公)の時代には、蜀漢の姜維の狄道侵攻を防ぐために陳泰・鄧艾と共に当たる一方で、東の諸葛誕討伐にも司馬昭の指揮下で参戦し、諸葛誕を討ち取る功績を挙げた。
晋成立後も引き続きこれに仕えた。271年に北で劉猛が反乱を起こすとこれを鎮圧し、しばらくは北方の異民族に対する防備にあたった。司馬炎(武帝)がこの頃から女色に耽るようになると、273年には胡奮の娘の胡芳も貴嬪(最高階の妃嬪)となった。
後に南方方面の軍事を担当するようになり、280年の呉征伐では呉領の夏口攻撃を命じられ、江安を制圧するなどの功績を挙げた。尚書僕射・鎮軍大将軍・開府儀同三司・陽夏侯となった。
武人として一生を過ごしたが、晩年になってからは学問もこなせるようになったという。皇帝の外戚となったことは負担であったらしく、276年に娘の楊芷が皇后になって権力を手にした楊駿の傲慢な態度を非難する一方で、外戚となって滅びなかった家はないと悲嘆している。