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北京育才館を卒業し<ref>なお、『宣城地区志』、822頁は、「1899年に北京政法学堂卒業」としているが、「北京政法学堂」という名の機関は当時存在していない。</ref>、[[山東省]]洋務局、商務局、[[巡撫]]署で任官した。その後日本に留学し、[[早稲田大学]]経済学部<ref>学部については、『宣城地区志』、822頁。</ref>を卒業している<ref name=Xu/>。 |
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2020年8月26日 (水) 05:35時点における版
王達 | |
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プロフィール | |
出生: | 1881年(清光緒7年)[1] |
死去: |
1946年(民国35年)[2] 中華民国 |
出身地: | 清安徽省寧国府涇県 |
職業: | 政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 王達 |
簡体字: | 王达 |
拼音: | Wáng Dá |
ラテン字: | Wang Ta |
和名表記: | おう たつ |
発音転記: | ワン ダー |
王 達(おう たつ)は清末民初の政治家。字は志襄[1]、子襄[2]。別名は蘭生[2]。
事績
北京育才館を卒業し[3]、山東省洋務局、商務局、巡撫署で任官した。その後日本に留学し、早稲田大学経済学部[4]を卒業している[1]。
帰国後は山東省の進士資格を得て寧陽県、菏沢県などの県で知県(県知事)となる。中華民国が成立した1912年(民国元年)、高密県知事に任命された[2]。1915年(民国4年)9月、京兆尹に就任し、1920年(民国9年)8月まで在任した[5]。任期中の1917年(民国6年)に北京市で水害が発生、その対応に従事するなど、全般に治績は良好だったとされる[2]。
1924年(民国13年)、安徽省官鉱督弁となり[1][2]、翌年には安徽省省長顧問となった[2]。1931年(民国20年)9月、満州事変が起きると国民政府から駐日大使任命を打診されたが、王達は辞退している。同年、国民政府が組織した国民大会に国民代表として選出されたが、耳の病を理由に大会には出席しなかった。日中戦争期間中は蕪湖県に寓居しており、日本側から任官を誘われたものの全て拒否している[2]。
1946年(民国35年)、病没。享年66。家財は何も残っていなかったとされる[2]。
注
参考文献
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 外務省情報部編『改訂 現代支那人名鑑』東亜同文会調査編纂部、1928年。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
- 宣城地区地方志編纂委員会編『宣城地区志』方志出版社、1998年。ISBN 9787807079118。
中華民国(北京政府)
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