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「長槍会」の版間の差分

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'''長槍会'''(ちょうそうかい)は[[清]]末に[[山東省]]で蜂起した民衆反乱軍。
'''長槍会'''(ちょうそうかい)は[[清]]末に[[山東省]]で蜂起した民衆反乱軍。


[[咸豊]]年間に山東省[[沢市|菏沢県]]では[[生員]]の[[郭秉均]]を中心に、[[劉占考]]・[[倪広和]]・[[焦桂昌]]らによって「一心団」という[[団練]]が組織されていた。一心団は長矛を主要な武器としていたため、長槍会とも呼ばれた。彼らは[[黄河]]流域の船の荷物の積み下ろしで利益をあげ、10万人規模に膨れ上がり、菏沢・[[曹県]]・[[濮陽県|濮州]]・[[定陶県|定陶]]一帯に広まった。しかし長槍会の拡大は清朝の警戒を呼び、[[1860年]]に[[捻軍]]が山東省に迫ると、山東団練大臣から圧迫を受けるようになり、蜂起を迫られた。長槍会は[[范県]]を占領し、[[大運河]]の輸送船を襲って、清軍をしばしば破った。しかし[[1861年]]、[[センゲリンチン]](僧格林沁)・[[勝保]]率いる清軍に敗れ、劉占考は降伏し、郭秉均は余党を率いて捻軍に合流した。また一部は黄河と大運河の交差地帯で闘争を続けた。
[[咸豊]]年間に山東省[[沢市|菏沢県]]では[[生員]]の[[郭秉均]]を中心に、[[劉占考]]・[[倪広和]]・[[焦桂昌]]らによって「一心団」という[[団練]]が組織されていた。一心団は長矛を主要な武器としていたため、長槍会とも呼ばれた。彼らは[[黄河]]流域の船の荷物の積み下ろしで利益をあげ、10万人規模に膨れ上がり、菏沢・[[曹県]]・[[濮陽県|濮州]]・[[定陶県|定陶]]一帯に広まった。しかし長槍会の拡大は清朝の警戒を呼び、[[1860年]]に[[捻軍]]が山東省に迫ると、山東団練大臣から圧迫を受けるようになり、蜂起を迫られた。長槍会は[[范県]]を占領し、[[大運河]]の輸送船を襲って、清軍をしばしば破った。しかし[[1861年]]、[[センゲリンチン]](僧格林沁)・[[勝保]]率いる清軍に敗れ、劉占考は降伏し、郭秉均は余党を率いて捻軍に合流した。また一部は黄河と大運河の交差地帯で闘争を続けた。


==参考文献==
==参考文献==

2020年8月26日 (水) 05:35時点における版

長槍会(ちょうそうかい)は末に山東省で蜂起した民衆反乱軍。

咸豊年間に山東省菏沢県では生員郭秉均を中心に、劉占考倪広和焦桂昌らによって「一心団」という団練が組織されていた。一心団は長矛を主要な武器としていたため、長槍会とも呼ばれた。彼らは黄河流域の船の荷物の積み下ろしで利益をあげ、10万人規模に膨れ上がり、菏沢・曹県濮州定陶一帯に広まった。しかし長槍会の拡大は清朝の警戒を呼び、1860年捻軍が山東省に迫ると、山東団練大臣から圧迫を受けるようになり、蜂起を迫られた。長槍会は范県を占領し、大運河の輸送船を襲って、清軍をしばしば破った。しかし1861年センゲリンチン(僧格林沁)・勝保率いる清軍に敗れ、劉占考は降伏し、郭秉均は余党を率いて捻軍に合流した。また一部は黄河と大運河の交差地帯で闘争を続けた。

参考文献

  • 郭穀生・史式編『太平天国大辞典』中国社会科学出版社