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'''馬 新貽'''(ば しんい、''Ma Xinyi''、[[1821年]] - [[1870年]][[8月22日]])は、[[清]]末の官僚。字は'''穀山'''。[[ムスリム]]。[[山東省]][[沢市|菏沢県]]出身。
'''馬 新貽'''(ば しんい、''Ma Xinyi''、[[1821年]] - [[1870年]][[8月22日]])は、[[清]]末の官僚。字は'''穀山'''。[[ムスリム]]。[[山東省]][[沢市|菏沢県]]出身。


[[道光]]27年([[1847年]])の[[進士]]で、[[李鴻章]]と同期。[[安徽省]]の[[太和県|太和]]・[[宿松県|宿松]]などの知県を務めた。[[太平天国の乱|太平天国]]と[[捻軍]]に対しては[[団練]]を組織し、安徽省北部を転戦して、[[廬州]][[知府]]代理、[[安慶市|安慶]]知府に抜擢された。[[咸豊]]11年([[1861年]])に父の死により郷里に帰ったが、捻軍が山東省に侵入したため、防衛の指揮を執った。翌[[同治]]元年([[1862年]])に安徽省に戻り、[[袁甲三]]に従って廬州の奪回に功績があった。同治2年([[1863年]])、安徽北部の団練の[[苗沛霖]]が反旗を翻し[[蒙城県|蒙城]]で包囲されたが、守り抜くことに成功し安徽[[承宣布政使|布政使]]となった。
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2020年8月26日 (水) 05:34時点における版

馬 新貽(ば しんい、Ma Xinyi1821年 - 1870年8月22日)は、末の官僚。字は穀山ムスリム山東省菏沢県出身。

道光27年(1847年)の進士で、李鴻章と同期。安徽省太和宿松などの知県を務めた。太平天国捻軍に対しては団練を組織し、安徽省北部を転戦して、廬州知府代理、安慶知府に抜擢された。咸豊11年(1861年)に父の死により郷里に帰ったが、捻軍が山東省に侵入したため、防衛の指揮を執った。翌同治元年(1862年)に安徽省に戻り、袁甲三に従って廬州の奪回に功績があった。同治2年(1863年)、安徽北部の団練の苗沛霖が反旗を翻し蒙城で包囲されたが、守り抜くことに成功し安徽布政使となった。

翌同治3年(1864年)に浙江巡撫に昇進し、政治・軍事ともに実績を上げた。同治6年(1867年)に閩浙総督に就任し、翌同治7年(1868年)に曽国藩の後任の両江総督に異動となった。しかし両江総督在職中の同治9年(1870年)、張文祥によって衆人環視のもと刺殺された。張文祥は処刑されたが原因は不明に終わったため、馬新貽の暗殺は清末四大奇案の1つとして数えられ、演劇・映画・テレビドラマの題材として幾度かとりあげられた。死後は直隷総督だった曽国藩が両江総督に復帰、李鴻章が直隷総督に就任した。

先代
曽国荃
浙江巡撫
1864年 - 1867年
次代
李瀚章
先代
呉棠
閩浙総督
1867年 - 1868年
次代
英桂
先代
曽国藩
両江総督
1868年 - 1870年
次代
曽国藩