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その後王仙芝と黄巣は分裂し、双方とも各地を転戦したが、乾符5年([[878年]])に王仙芝は官軍に敗れて戦死、一方の黄巣は乾符6年([[879年]])9月[[広州 (広東省)|広州]]を落として勢いを増すと、その後は破竹の進撃を続け10月[[桂州]]に達し、[[潭州]]([[長沙郡|長沙]])を占領していった。[[金統]]元年([[880年]])5月{{仮リンク|信州 (江西省)|zh|信州 (江西)|label=信州}}、6月[[宣州]]、9月に[[泗州]]、11月に[[洛陽市|洛陽]]、12月[[僖宗 (唐)|僖宗]]を[[蜀]]の地へと逃亡させ[[長安]]を陥落させた。長安に入った黄巣は自ら皇帝として即位し、国号を'''斉([[:zh:齊 (黃巢)|中国語版]])'''として天下に号令しようとしたが、塩賊の寄せ集めである黄巣軍に政治を執れる者などおらず、しかも長安入城とともに唐の百官諸大夫を殺戮したため国政は停滞した。こうして無闇に略奪を繰り返すことしか出来ない斉から民心は次第に離れて行った。 |
2020年8月26日 (水) 05:32時点における版
黄巣 | |
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斉 | |
皇帝 | |
王朝 | 斉 |
在位期間 | 878年 - 884年 |
都城 | 長安 |
姓・諱 | 黄巣 |
諡号 | 承天応運啓聖睿文宣武皇帝 |
生年 | 大和9年(835年) |
没年 |
金統5年6月17日 (884年7月13日) |
后妃 | 曹氏 |
年号 |
王霸 : 878年 - 880年 金統 : 880年 - 884年 |
黄巣(こう そう)は、唐末の反乱指導者。874年から10年間、全土を転戦しながら反乱を指揮した。
この一連の大乱を黄巣の名をとって黄巣の乱(中国語版)と呼ぶ。黄巣の乱により全国王朝としての唐は実質的に滅び、以後は各地に割拠する軍閥の中で長安一帯をかろうじて治める一地方政権に転落する。
生涯
曹州冤句県(現在の山東省菏沢市牡丹区)の出身。若い頃は官吏を目指していたが、科挙に何度も落第、これを諦めた後に私塩の密売に手を染めた。乾符元年(874年)、同じ塩の闇業者だった王仙芝が挙兵するとこれに参加し、やがて反乱軍の中心人物の一人となっていった。
その後王仙芝と黄巣は分裂し、双方とも各地を転戦したが、乾符5年(878年)に王仙芝は官軍に敗れて戦死、一方の黄巣は乾符6年(879年)9月広州を落として勢いを増すと、その後は破竹の進撃を続け10月桂州に達し、潭州(長沙)を占領していった。金統元年(880年)5月信州、6月宣州、9月に泗州、11月に洛陽、12月僖宗を蜀の地へと逃亡させ長安を陥落させた。長安に入った黄巣は自ら皇帝として即位し、国号を斉(中国語版)として天下に号令しようとしたが、塩賊の寄せ集めである黄巣軍に政治を執れる者などおらず、しかも長安入城とともに唐の百官諸大夫を殺戮したため国政は停滞した。こうして無闇に略奪を繰り返すことしか出来ない斉から民心は次第に離れて行った。
こうした状態の斉に見切りを付けた幹部の朱温は蜀の地に亡命していた唐に寝返った。そこを雁門節度使の李克用に衝かれると、斉軍はひとたまりもなく長安を捨てて逃走した。その後の斉軍は次第に勢力を失い、金統5年(884年)5月に中牟県の北にある王満渡の決戦で大敗すると壊滅状態に陥った。部下の尚譲の裏切りで黄巣は瑕丘(現在の山東省兗州市)を経て、故郷に近い泰山付近の狼虎谷に逃亡。そこで、外甥の林言の介錯のもと自害して果てた。
林言は黄巣の首級を唐の武寧節度使の時溥の所に持参する途中で、沙陀部の軍隊に殺害され、その首級を奪われたという。
その後も小規模ながら、後を継いだ黄巣の従子の黄皓が抗戦を続けていたが、やがて朱温と李克用によって鎮圧された。
23年後には、その唐を簒奪して名実共に滅ぼしたのは朱温改め朱全忠の立てた後梁だった。そしてその後梁も3代16年で李克用の子・李存勗の立てた後唐によって放伐されることになる。
現在の中国では、農民反乱の指導者として、明朝末の李自成とともに高く評価されている。
塩の密売人
塩の専売は古代国家においては非常に重要な財源で、唐でも国家財政が悪化するとその都度塩価が引き上げられた。そうした際、塩の闇業者は塩を安い闇価格で売っても巨額の利益が出る上、安く買えた民衆はこれに感謝して闇業者を歓迎し、村ぐるみ・都市ぐるみでこれを庇った。そうした闇業者を相手にいくら政府が取締りを強化しても一向に効果は上がらなかった。既に財政が傾いていた唐はさらに塩価を吊り上げる、すると各地に塩の闇業者が次々に現れる、それでは専売の塩の方は売れず財政も好転しない、その結果政府はさらなる塩価の値上げをせざるを得なくなる、という悪循環に陥った唐は加速度的にその国力を衰退させ、逆に塩賊はあちこちで兵を挙げ、それらを糾合した王仙芝と黄巣の反乱は瞬く間にその規模を増大させて各地を荒らしまわった。
詩
黄巣はいくつか漢詩も残しており、『題菊花(菊花に題す)[1]』、『詠菊(菊を詠ず)[2]』などで反乱への意気込みを謡っている。