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'''謝弼'''(しゃ ひつ、生没年不詳)は、[[後漢]]の[[官僚]]。[[字]]は輔宣<ref>[[范曄]]『[[後漢書]]』謝弼伝による。[[謝承]]『後漢書』は字を輔鸞とする。</ref>。[[本貫]]は[[東郡]][[ |
'''謝弼'''(しゃ ひつ、生没年不詳)は、[[後漢]]の[[官僚]]。[[字]]は輔宣<ref>[[范曄]]『[[後漢書]]』謝弼伝による。[[謝承]]『後漢書』は字を輔鸞とする。</ref>。[[本貫]]は[[東郡]][[莘県|東武陽県]]<ref>范曄『後漢書』謝弼伝による。謝承『後漢書』は東郡[[濮陽県]]の人とする。</ref>。 |
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== 経歴 == |
== 経歴 == |
2020年8月26日 (水) 05:25時点における版
謝弼(しゃ ひつ、生没年不詳)は、後漢の官僚。字は輔宣[1]。本貫は東郡東武陽県[2]。
経歴
実直公正な人柄で郷里では宗師と仰がれていた。169年(建寧2年)、霊帝が有道の士を推挙するよう詔を下すと、謝弼は陳敦や公孫度とともに回答し、みな郎中に任じられた。
ときに青蛇が洛陽の前殿に現れ、大風によって木が抜けるといった怪事があったことから、霊帝は公卿以下に詔を下してその得失を論じさせた。謝弼は妖異を天の譴責とみなして、姦臣を排除し、陳蕃・王暢・李膺らを朝政に復帰させるよう求めた。
このため謝弼は霊帝の側近の宦官たちに憎まれ、広陵府丞に左遷された。謝弼は官を去って家に帰った。
中常侍の曹節の従子である曹紹が東郡太守となると、謝弼を憎んで収監させた。謝弼は拷問を受けて獄中で死去した。191年(初平2年)、司隷校尉の趙謙が謝弼の忠節を訴え、名誉回復させると、曹紹を収監してこれを斬り捨てて、棄市させた。
脚注
伝記資料
- 『後漢書』巻57 列伝第47