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'''曽 国華'''(そう こくか、''Zeng Guohua''、[[1822年]][[7月4日]] - [[1858年]][[11月15日]])は、[[清]]末の軍人。字は'''温甫'''。[[湘軍]]の指揮官で[[曽国藩]]の弟。[[曽国セン|曽国荃]]・[[曽貞幹]]の兄。[[湖南省]][[湘郷市|湘郷県]](現在の[[双峰県]]荷葉鎮)出身。
'''曽 国華'''(そう こくか、''Zeng Guohua''、[[1822年]][[7月4日]] - [[1858年]][[11月15日]])は、[[清]]末の軍人。字は'''温甫'''。[[湘軍]]の指揮官で[[曽国藩]]の弟。[[曽国荃]]・[[曽貞幹]]の兄。[[湖南省]][[湘郷市|湘郷県]](現在の[[双峰県]]荷葉鎮)出身。


[[咸豊]]5年([[1855年]])、長兄曽国藩が[[江西省]]で苦戦していると聞き、[[湖北省]]で軍を募り、湖北[[巡撫]]の[[胡林翼]]が差し向けた[[劉騰鴻]]・[[普承堯]]ら5千人の援軍と合流。[[咸寧市|咸寧]]、[[赤壁市|蒲圻]]、[[通城県|通城]]、新昌、上高を陥落させ、[[高安市|瑞州]]を包囲した。 劉騰鴻は城の南で、曽国華・普承堯は城の西北で[[太平天国の乱|太平天国]]軍と戦った。更に曽国藩が来て、協力して城を包囲したが、父の死でともに郷里に帰った。
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2020年8月26日 (水) 05:17時点における版

曽国華

曽 国華(そう こくか、Zeng Guohua1822年7月4日 - 1858年11月15日)は、末の軍人。字は温甫湘軍の指揮官で曽国藩の弟。曽国荃曽貞幹の兄。湖南省湘郷県(現在の双峰県荷葉鎮)出身。

咸豊5年(1855年)、長兄曽国藩が江西省で苦戦していると聞き、湖北省で軍を募り、湖北巡撫胡林翼が差し向けた劉騰鴻普承堯ら5千人の援軍と合流。咸寧蒲圻通城、新昌、上高を陥落させ、瑞州を包囲した。 劉騰鴻は城の南で、曽国華・普承堯は城の西北で太平天国軍と戦った。更に曽国藩が来て、協力して城を包囲したが、父の死でともに郷里に帰った。

その後、姻戚関係にある李続賓の補佐にあたり、咸豊8年(1858年)に太湖潜山桐城舒城安徽省の4県を陥落させたが、三河の戦いで敗北を喫し、戦死した。

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