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'''楊 岳斌'''(よう がくひん、''Yang Yuebin''、[[1822年]] - [[1889年]])は、[[清]]末の軍人。字は'''厚庵'''。[[湖南省]][[天心区|善化県]]出身。元の名は'''載福'''といったが、[[同治帝]]の名(載淳)を避けて岳斌と改名した。 |
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幼時より騎射に優れ、[[新寧県|新寧]]の反乱の鎮圧に参加した。[[1852年]]、[[湘陰県|湘陰]]の防衛に功績があり、千総に抜擢された。[[1853年]]、[[曽国藩]]が[[湘軍]]を創設すると、水軍の指揮官となった。[[湘潭市|湘潭]]・[[岳陽市|岳州]]・[[武昌区|武昌]]・田家鎮を転戦し、鄖陽鎮総兵・湖北[[提督 (清朝)|提督]]代理に任命された。[[1858年]]、[[李続賓]]とともに[[江西省]]の[[九江市|九江]]を攻め、[[太平天国]]軍の[[林啓栄]]を捕らえた。[[1859年]]から[[安慶市|安慶]]包囲に加わり、[[陳玉成]]や[[李世賢]]らと戦い、他の諸将とともに[[1861年]]に陥落させた。[[1863年]]から[[ |
幼時より騎射に優れ、[[新寧県|新寧]]の反乱の鎮圧に参加した。[[1852年]]、[[湘陰県|湘陰]]の防衛に功績があり、千総に抜擢された。[[1853年]]、[[曽国藩]]が[[湘軍]]を創設すると、水軍の指揮官となった。[[湘潭市|湘潭]]・[[岳陽市|岳州]]・[[武昌区|武昌]]・田家鎮を転戦し、鄖陽鎮総兵・湖北[[提督 (清朝)|提督]]代理に任命された。[[1858年]]、[[李続賓]]とともに[[江西省]]の[[九江市|九江]]を攻め、[[太平天国]]軍の[[林啓栄]]を捕らえた。[[1859年]]から[[安慶市|安慶]]包囲に加わり、[[陳玉成]]や[[李世賢]]らと戦い、他の諸将とともに[[1861年]]に陥落させた。[[1863年]]から[[曽国荃]]の南京包囲に加わった。[[1864年]]、江西省・[[安徽省]]の軍務の統括を命じられ、[[陝甘総督]]に抜擢された。[[1865年]]、江西省・安徽省を平定した後に[[陝西省]]に赴任したが、[[回民蜂起]]に苦戦し、[[1866年]]に辞職した。[[1875年]]、[[彭玉麟]]とともに長江水師の巡閲を命じられた。[[1883年]]、[[清仏戦争]]が起きると[[福建省]]の軍務を命じられ、さらに江南の軍務についた。[[1885年]]、12営を率いて[[台湾]]に赴き、[[劉銘伝]]とともにフランス軍の上陸を阻止した。死後、勇愨の[[諡号]]を贈られた。 |
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==出典== |
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2020年8月26日 (水) 05:16時点における版
楊 岳斌(よう がくひん、Yang Yuebin、1822年 - 1889年)は、清末の軍人。字は厚庵。湖南省善化県出身。元の名は載福といったが、同治帝の名(載淳)を避けて岳斌と改名した。
幼時より騎射に優れ、新寧の反乱の鎮圧に参加した。1852年、湘陰の防衛に功績があり、千総に抜擢された。1853年、曽国藩が湘軍を創設すると、水軍の指揮官となった。湘潭・岳州・武昌・田家鎮を転戦し、鄖陽鎮総兵・湖北提督代理に任命された。1858年、李続賓とともに江西省の九江を攻め、太平天国軍の林啓栄を捕らえた。1859年から安慶包囲に加わり、陳玉成や李世賢らと戦い、他の諸将とともに1861年に陥落させた。1863年から曽国荃の南京包囲に加わった。1864年、江西省・安徽省の軍務の統括を命じられ、陝甘総督に抜擢された。1865年、江西省・安徽省を平定した後に陝西省に赴任したが、回民蜂起に苦戦し、1866年に辞職した。1875年、彭玉麟とともに長江水師の巡閲を命じられた。1883年、清仏戦争が起きると福建省の軍務を命じられ、さらに江南の軍務についた。1885年、12営を率いて台湾に赴き、劉銘伝とともにフランス軍の上陸を阻止した。死後、勇愨の諡号を贈られた。
出典
- 『清史稿』巻410・列伝197
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