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'''郭松林'''(かく しょうりん、''Guo Songlin''、[[1833年]] - [[1880年]])は、[[清]]末の軍人。字は'''子美'''。 
'''郭松林'''(かく しょうりん、''Guo Songlin''、[[1833年]] - [[1880年]])は、[[清]]末の軍人。字は'''子美'''。 


[[湖南省]][[湘潭市|湘潭]]出身。[[1856年]]、[[曽国セン|曽国荃]]軍に属し、把総となり、[[江西省]]の救援に従軍する。江西省では[[石達開]]軍と戦い、[[1858年]]に[[吉安市|吉安]]を落とすのに功績をあげ守備に抜擢された。[[1860年]]から[[安慶市|安慶]]を包囲し、小池駅で[[陳玉成]]軍と戦った。[[1861年]]、安慶を陥落させ、遊撃に昇進し、[[バトゥル]]の称号を得た。その後、[[廬江県|廬江]]など[[長江]]沿いの要衝を確保し、参将となった。
[[湖南省]][[湘潭市|湘潭]]出身。[[1856年]]、[[曽国荃]]軍に属し、把総となり、[[江西省]]の救援に従軍する。江西省では[[石達開]]軍と戦い、[[1858年]]に[[吉安市|吉安]]を落とすのに功績をあげ守備に抜擢された。[[1860年]]から[[安慶市|安慶]]を包囲し、小池駅で[[陳玉成]]軍と戦った。[[1861年]]、安慶を陥落させ、遊撃に昇進し、[[バトゥル]]の称号を得た。その後、[[廬江県|廬江]]など[[長江]]沿いの要衝を確保し、参将となった。


[[1861年]]、[[李鴻章]]が[[淮軍]]を率いて[[上海市|上海]]に赴くと、郭松林もそれに従った。[[李秀成]]と[[譚紹光]]と上海の西で戦い、[[太平天国]]軍10万を破った。翌年、[[太倉市|太倉]]・[[昆山市|昆山]]を陥落させ、総兵となった。その後、[[劉銘伝]]・[[周盛波]]とともに[[蘇州市|蘇州]]・[[無錫市|無錫]]を奪回するのに貢献した。[[1864年]]、[[宜興市|宜興]]・[[常州市|常州]]・[[湖州市|湖州]]を次々と陥落させた。太平天国軍は江西省を経て、[[福建省]]に逃れたが、[[1865年]]に李鴻章は郭松林に兵5千をつけて海から応援に赴かせた。郭松林は[[ショウ州市|漳州]]を落とし、太平天国軍は[[広東省]][[梅県|嘉応]]に逃れて壊滅した。
[[1861年]]、[[李鴻章]]が[[淮軍]]を率いて[[上海市|上海]]に赴くと、郭松林もそれに従った。[[李秀成]]と[[譚紹光]]と上海の西で戦い、[[太平天国]]軍10万を破った。翌年、[[太倉市|太倉]]・[[昆山市|昆山]]を陥落させ、総兵となった。その後、[[劉銘伝]]・[[周盛波]]とともに[[蘇州市|蘇州]]・[[無錫市|無錫]]を奪回するのに貢献した。[[1864年]]、[[宜興市|宜興]]・[[常州市|常州]]・[[湖州市|湖州]]を次々と陥落させた。太平天国軍は江西省を経て、[[福建省]]に逃れたが、[[1865年]]に李鴻章は郭松林に兵5千をつけて海から応援に赴かせた。郭松林は[[ショウ州市|漳州]]を落とし、太平天国軍は[[広東省]][[梅県|嘉応]]に逃れて壊滅した。

2020年8月26日 (水) 05:16時点における版

郭松林(かく しょうりん、Guo Songlin1833年 - 1880年)は、末の軍人。字は子美。 

湖南省湘潭出身。1856年曽国荃軍に属し、把総となり、江西省の救援に従軍する。江西省では石達開軍と戦い、1858年吉安を落とすのに功績をあげ守備に抜擢された。1860年から安慶を包囲し、小池駅で陳玉成軍と戦った。1861年、安慶を陥落させ、遊撃に昇進し、バトゥルの称号を得た。その後、廬江など長江沿いの要衝を確保し、参将となった。

1861年李鴻章淮軍を率いて上海に赴くと、郭松林もそれに従った。李秀成譚紹光と上海の西で戦い、太平天国軍10万を破った。翌年、太倉昆山を陥落させ、総兵となった。その後、劉銘伝周盛波とともに蘇州無錫を奪回するのに貢献した。1864年宜興常州湖州を次々と陥落させた。太平天国軍は江西省を経て、福建省に逃れたが、1865年に李鴻章は郭松林に兵5千をつけて海から応援に赴かせた。郭松林は漳州を落とし、太平天国軍は広東省嘉応に逃れて壊滅した。

1866年、曽国荃は捻軍との戦いに郭松林を派遣するが、郭松林は負傷し、弟の郭芳珍が戦死した。1867年11月、傷が癒えて戦線に復帰した。捻軍の幹部のうち、任柱はすでに戦死しており、残りの者は海沿いに南下していたが、劉銘伝とともに追撃し、頼文光を破り、范汝増らを戦死させた。頼文光はさらに南下したものの、揚州で捕らえられ、東捻軍は平定された。

1868年、西捻軍が北京をうかがうと潘鼎新とともに防衛にあたり、6月に沙河で捻軍を破り、張宗禹は水死して、西捻軍は平定された。

その後、湖北提督、直隷提督を歴任した。死後、武壮の諡号を贈られた。