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[[1847年]]、[[進士]]となり[[庶吉士]]に選ばれる。[[1863年]]、戸部左侍郎・[[山西省|山西]][[巡撫]]代理となり、任地ではアヘン栽培を厳禁した。[[1867年]]に[[軍機大臣]]となり、[[1869年]]には[[総理各国事務衙門]]大臣となった。同期の進士に[[李鴻章]]・[[沈葆楨]]・[[郭嵩燾]]・[[馬新貽]]・[[何璟]]らがおり、相互に助け合って[[洋務運動]]を推進していった。沈桂芬は中央政府で洋務運動を推進した漢人の代表であった。[[梁啓超]]は「清朝で漢人が政権を掌握する嚆矢となった」と評している。沈桂芬はまた清廉なことでも知られていた。死後に文定の[[諡号]]を贈られた。


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2020年8月26日 (水) 05:15時点における版

沈桂芬

沈 桂芬(しん けいふん、Shen Guifen1818年 - 1881年)は、末の官僚。字は経笙または小山江蘇省呉江県(現在の蘇州市)出身。

1847年進士となり庶吉士に選ばれる。1863年、戸部左侍郎・山西巡撫代理となり、任地ではアヘン栽培を厳禁した。1867年軍機大臣となり、1869年には総理各国事務衙門大臣となった。同期の進士に李鴻章沈葆楨郭嵩燾馬新貽何璟らがおり、相互に助け合って洋務運動を推進していった。沈桂芬は中央政府で洋務運動を推進した漢人の代表であった。梁啓超は「清朝で漢人が政権を掌握する嚆矢となった」と評している。沈桂芬はまた清廉なことでも知られていた。死後に文定の諡号を贈られた。

先代
英桂(イングイ)
山西巡撫
1863-1865
次代
曽国荃
先代
毛昶熙
都察院漢左都御史
1869-1870
次代
龐鍾璐
先代
鄭敦謹
兵部漢尚書
1870-1881
次代
李鴻藻