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当時[[新疆省|新疆]]は[[コーカンド・ハン国]]の軍人[[ヤクブ・ベク]]が占領していたが、清の[[陝甘総督]][[左宗棠]]によって滅ぼされた。[[ロシア帝国|ロシア]]はこの混乱に乗じて[[イリ地方]]を占領した。清朝は戸部右侍郎兼盛京将軍代理の[[崇厚]]を派遣して交渉にあたらせたが、崇厚はロシアにイリ地方をすべて割譲し賠償金を支払うという[[リヴァディア条約]]を結ぶ。清の朝廷はこれを認めず、曽紀沢に駐露公使を兼任させて改めて交渉にあたらせた。結局、[[1881年]]に[[イリ条約]]を結び、イリ地方の一部の返還に成功した。このため曽紀沢の評価は国内外で高まった。
当時[[新疆省|新疆]]は[[コーカンド・ハン国]]の軍人[[ヤクブ・ベク]]が占領していたが、清の[[陝甘総督]][[左宗棠]]によって滅ぼされた。[[ロシア帝国|ロシア]]はこの混乱に乗じて[[イリ地方]]を占領した。清朝は戸部右侍郎兼盛京将軍代理の[[崇厚]]を派遣して交渉にあたらせたが、崇厚はロシアにイリ地方をすべて割譲し賠償金を支払うという[[リヴァディア条約]]を結ぶ。清の朝廷はこれを認めず、曽紀沢に駐露公使を兼任させて改めて交渉にあたらせた。結局、[[1881年]]に[[イリ条約]]を結び、イリ地方の一部の返還に成功した。このため曽紀沢の評価は国内外で高まった。


その後曽紀沢は[[イギリス]]とのアヘン貿易問題や[[李氏朝鮮|朝鮮]]・[[ミャンマー]]などの問題の交渉にあたる。[[1884年]]、[[清仏戦争]]の際には[[フランス]]に強硬姿勢をとったため、和平論が主流になった朝廷により駐仏公使を解任された。[[1885年]]には駐英公使を免ぜられ帰国した。帰国前に清の内政外交と列強の対清政策を論じた『China, the Sleep and the Awakening』(『中国先睡後醒論』)を発表した。帰国後は戸部右侍郎、[[総理各国事務衙門]]大臣などを歴任し、外交政策の改革と不平等条約の改正に尽力した。死後、恵敏の[[諡号]]が贈られた。同年、叔父の[[曽国セン|曽国荃]]も没している。
その後曽紀沢は[[イギリス]]とのアヘン貿易問題や[[李氏朝鮮|朝鮮]]・[[ミャンマー]]などの問題の交渉にあたる。[[1884年]]、[[清仏戦争]]の際には[[フランス]]に強硬姿勢をとったため、和平論が主流になった朝廷により駐仏公使を解任された。[[1885年]]には駐英公使を免ぜられ帰国した。帰国前に清の内政外交と列強の対清政策を論じた『China, the Sleep and the Awakening』(『中国先睡後醒論』)を発表した。帰国後は戸部右侍郎、[[総理各国事務衙門]]大臣などを歴任し、外交政策の改革と不平等条約の改正に尽力した。死後、恵敏の[[諡号]]が贈られた。同年、叔父の[[曽国荃]]も没している。


==著作==
==著作==

2020年8月26日 (水) 05:15時点における版

曽紀沢

曽 紀沢(そう きたく、Zeng Jize1839年12月7日 - 1890年4月12日)は、末の外交官曽国藩の長男で曽紀鴻の兄。子に曽広鈞など。字は劼剛、号は夢瞻湖南省湘郷県(現在の双峰県荷葉鎮)出身。

1870年、父の功で戸部員外郎に任ぜられる。1877年、父の爵位を継いで一等毅勇侯となる。1878年、駐英公使兼駐仏公使に任命され、太常寺卿に補任される。

当時新疆コーカンド・ハン国の軍人ヤクブ・ベクが占領していたが、清の陝甘総督左宗棠によって滅ぼされた。ロシアはこの混乱に乗じてイリ地方を占領した。清朝は戸部右侍郎兼盛京将軍代理の崇厚を派遣して交渉にあたらせたが、崇厚はロシアにイリ地方をすべて割譲し賠償金を支払うというリヴァディア条約を結ぶ。清の朝廷はこれを認めず、曽紀沢に駐露公使を兼任させて改めて交渉にあたらせた。結局、1881年イリ条約を結び、イリ地方の一部の返還に成功した。このため曽紀沢の評価は国内外で高まった。

その後曽紀沢はイギリスとのアヘン貿易問題や朝鮮ミャンマーなどの問題の交渉にあたる。1884年清仏戦争の際にはフランスに強硬姿勢をとったため、和平論が主流になった朝廷により駐仏公使を解任された。1885年には駐英公使を免ぜられ帰国した。帰国前に清の内政外交と列強の対清政策を論じた『China, the Sleep and the Awakening』(『中国先睡後醒論』)を発表した。帰国後は戸部右侍郎、総理各国事務衙門大臣などを歴任し、外交政策の改革と不平等条約の改正に尽力した。死後、恵敏の諡号が贈られた。同年、叔父の曽国荃も没している。

著作

  • 『曽恵敏公遺集』
  • 『曽恵敏公全集』
  • 『曽恵敏公使西日記』
  • 『曽恵敏公手写日記』
  • 『出使英法俄日記』
  • 『曽紀沢日記』