コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「劉揆一」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: 琦琨を含む記事の改名に伴うリンク修正依頼 (向瑞琨) - log
44行目: 44行目:
|-
|-
! {{CHN1912}}([[北京政府]])
! {{CHN1912}}([[北京政府]])
{{先代次代|工商総長|<small>[[1912年]]8月 - [[1913年]]7月</small>|[[王正廷]]|[[向瑞コン|向瑞&#x7428;]]}}
{{先代次代|工商総長|<small>[[1912年]]8月 - [[1913年]]7月</small>|[[王正廷]]|[[向瑞]]}}
|}
|}



2020年8月25日 (火) 23:03時点における版

劉揆一
プロフィール
出生: 1878年12月3日
光緒4年11月初10日)
死去: 1950年11月1日
中華人民共和国湖南省長沙市湘潭県
出身地: 清の旗 湖南省長沙府湘潭県白石鋪(現・湘潭県白石鎮)
職業: 政治家・革命家
各種表記
繁体字 劉揆一
簡体字 刘揆一
拼音 Líu Kuíyī
ラテン字 Liu K'ui-I
注音二式 Lióu Kuéiyī
和名表記: りゅう きいつ/りゅう きいち
発音転記: リウ クイイー
テンプレートを表示

劉 揆一(りゅう きいつ/りゅう きいち)は清末中華民国の政治家・革命家。清末の革命派の人士である。霖生。祖籍は湖南省衡陽府衡山県

事績

清末の活動

父は湘軍郷勇。劉揆一は、初め長沙嶽麓書院に学び、1903年光緒29年)春より日本に留学して弘文学院速成師範科に入学した。このとき黄興と交友を結び、「拒露義勇隊」に参加する。同年末に長沙に戻り、黄興等と共に華興会設立に参加して、副会長に就任する。翌年長沙起義を計画したが、清朝当局に事前に情報が漏洩し日本に亡命している。

1905年(光緒31年)に、東京で孫文(孫中山)が中国同盟会を組織すると、黄興はこれに加わった。しかし劉は異議を唱え、創立当初は参加を拒否した。1907年(光緒33年)1月、ようやく劉は同盟会に加入し、東京本部で庶務幹事を担当した。後に、陶成章李燮和らが孫文排斥活動を企むと、劉は黄らとともにこれを退けた。1911年宣統3年)10月、辛亥革命が勃発すると、劉は帰国して湖北軍政府に加わり、清軍に対峙している。

民初の活動

中華民国成立後は、劉揆一は袁世凱への接近を図るようになる。1912年民国元年)8月、陸徴祥内閣の工商総長に就任した。この際、中国同盟会からの離脱を宣言したが、9月の趙秉鈞内閣で宋教仁率いる国民党に復帰している。

翌年3月の宋教仁暗殺後、劉揆一は反袁派に参加しようとした。しかし、孫文・黄興からその反復を嫌悪され、参加を事実上拒絶されてしまう。そのため、劉は北京に留まって袁を支持した。ところが、工商部が私的に外債を借りたことが明るみに出てしまう。7月、劉はその責任をとらされ、工商総長を辞任に追い込まれた。

袁世凱が皇帝即位を目論むと、劉揆一はこれに反対の論陣を張る。護国戦争が勃発すると、護国軍を支持した。その後も政治活動を続けたが、南北双方で重要な地位は得られず、国民政府成立後は完全に政界から引退してしまう。以後、在野にあって『黄興伝記』を出版したり、あるいは中国国民党党史編纂委員会纂修をつとめたりしている。1933年(民国22年)、一時的ながら蒋介石から行政院顧問として招聘された。しかし、劉揆一が呈した聯共的言論は蒋に嫌悪され、翌年に罷免されてしまった。

中華人民共和国成立後も劉揆一は大陸に留まる。湖南省軍政委員会顧問として任用された。1950年11月1日、故郷の湘潭にて病没。享年73(満71歳)。

参考文献

  • 李静之 「劉揆一」『民国人物伝 第3巻』中国社会科学院近代史研究所、中華書局、1981年。
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
 中華民国の旗 中華民国北京政府
先代
王正廷
工商総長
1912年8月 - 1913年7月
次代
向瑞琨