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[[1901年]](光緒27年)11月に任務を終えて帰国し、内閣侍読学士、順天府署理太常寺卿を歴任した。[[1905年]](光緒31年)9月、駐比利時欽差大臣(駐ベルギー公使に相当)に任じられる。翌年、[[ケンブリッジ大学]]と[[オックスフォード大学]]の双方から名誉博士の学位を授与された。同年9月に帰国し、[[山西省|山西]]提法使に任じられる。以後、同省の[[承宣布政使|布政使]]、署理[[巡撫]]と昇進した。


[[中華民国]]成立後も、山西民政長として暫時留任する。[[1912年]]([[民国紀元|民国]]元年)3月、[[袁世凱]]により総統府政治顧問に招聘された。翌年6月、[[孫宝キ|孫宝琦]]とともに日本へ赴き、外交事務に携わった。
[[中華民国]]成立後も、山西民政長として暫時留任する。[[1912年]]([[民国紀元|民国]]元年)3月、[[袁世凱]]により総統府政治顧問に招聘された。翌年6月、[[孫宝]]とともに日本へ赴き、外交事務に携わった。


[[1916年]](民国5年)6月、[[熊希齢]]とともに、民彝社という組織を結成した。翌年6月、[[李経羲]]内閣で署理農商総長兼全国水利局総裁に任じられた。翌月の[[張勲復辟]]では、農工部尚書に任じられたが、実際には就任しなかった。復辟失敗後、[[段祺瑞]]内閣でも当初は署理農商総長となったが、わずか数日で辞任している。
[[1916年]](民国5年)6月、[[熊希齢]]とともに、民彝社という組織を結成した。翌年6月、[[李経羲]]内閣で署理農商総長兼全国水利局総裁に任じられた。翌月の[[張勲復辟]]では、農工部尚書に任じられたが、実際には就任しなかった。復辟失敗後、[[段祺瑞]]内閣でも当初は署理農商総長となったが、わずか数日で辞任している。

2020年8月25日 (火) 22:51時点における版

李盛鐸
Who's Who in China 3rd ed. (1925)
プロフィール
出生: 1859年咸豊9年)[1]
死去: 1937年民国26年)
中華民国の旗 中華民国天津市
出身地: 清の旗 江西省九江府徳化県
職業: 政治家
各種表記
繁体字 李盛鐸
簡体字 李盛铎
拼音 Lǐ Shèngduó
ラテン字 Li Sheng-to
和名表記: り せいたく
発音転記: リー ションドゥオ
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李 盛鐸(り せいたく)は清末民初の政治家・外交官。北京政府の要人。椒微。号は木斎

事績

1889年光緒15年)、殿試一甲第二名(榜眼)として、進士に及第する。以後、江南で官暦を重ね、公立京師大学堂総弁もつとめた。1898年(光緒24年)10月、日本へ視察に赴き、そのまま使日欽差大臣(駐日公使に相当)に任じられた。

1901年(光緒27年)11月に任務を終えて帰国し、内閣侍読学士、順天府署理太常寺卿を歴任した。1905年(光緒31年)9月、駐比利時欽差大臣(駐ベルギー公使に相当)に任じられる。翌年、ケンブリッジ大学オックスフォード大学の双方から名誉博士の学位を授与された。同年9月に帰国し、山西提法使に任じられる。以後、同省の布政使、署理巡撫と昇進した。

中華民国成立後も、山西民政長として暫時留任する。1912年民国元年)3月、袁世凱により総統府政治顧問に招聘された。翌年6月、孫宝琦とともに日本へ赴き、外交事務に携わった。

1916年(民国5年)6月、熊希齢とともに、民彝社という組織を結成した。翌年6月、李経羲内閣で署理農商総長兼全国水利局総裁に任じられた。翌月の張勲復辟では、農工部尚書に任じられたが、実際には就任しなかった。復辟失敗後、段祺瑞内閣でも当初は署理農商総長となったが、わずか数日で辞任している。

1918年(民国7年)7月、参議院議員に選出され、12月には参議院議長となった。翌年2月、国際連盟同志会理事をつとめた。1921年(民国10年)11月、羅振玉らと敦煌経籍輯存会を主催している。1925年(民国14年)9月、段祺瑞が臨時執政となると、国政商榷会会長に任じられた。

1937年(民国26年)、天津にて病没。享年79。

  1. ^ 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』519頁による。Who's Who in China 3rd ed., p.475は1860年とする。

参考文献

  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
 中華民国の旗 中華民国北京政府
先代
谷鍾秀
農商総長(署理)
1917年6月 - 7月
次代
張国淦
 清の旗 張勲復辟
先代
(創設)
農工部尚書(就任せず)
1917年7月
次代
(廃止)