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== 経歴 ==
== 経歴 ==
[[梁 (南朝)|南朝梁]]の中軍宣城王記室参軍の陸令公([[陸雲公]]の兄)の子として生まれた。若くして学問を積み、文章の修辞に優れていた。[[揚州 (古代)|揚州]]に[[秀才 (科挙)|秀才]]として挙げられた。驃騎安成王行参軍を初任とし、軍師晋安王外兵参軍・東宮学士に転じた。[[569年]]([[太建]]元年)、兄の[[陸エン|陸琰]]が東宮管記となると、兄弟ともに学問をもって[[皇太子]][[後主 (陳)|陳叔宝]]の側近として仕え、当時の人々に比較された。[[570年]](太建2年)、陳叔宝が[[太学]]で[[釈奠]]をおこない、宮臣に詩を賦させた。陸瑜はその序文を作るよう命じられ、完成した文章は言葉豊かでたいへん美しいものであった。陸瑜は尚書祠部郎中に転じたが、母が死去したために辞職して喪に服した。喪が明けると、桂陽王陳伯謀の下で明威将軍功曹史をつとめ、東宮管記を兼ねた。永陽王陳伯智の下に転じて文学をつとめ、陳叔宝の下で太子洗馬や太子中舎人を歴任した。太子陳叔宝は学問を好み、陸瑜に命じて雑多な文集の鈔撰集を作らせようとしたが、陸瑜は編纂の端緒につく前に44歳で死去した。[[584年]]([[至徳 (陳)|至徳]]2年)、光禄卿の位を追贈された。遺著に文集10巻があった。
[[梁 (南朝)|南朝梁]]の中軍宣城王記室参軍の陸令公([[陸雲公]]の兄)の子として生まれた。若くして学問を積み、文章の修辞に優れていた。[[揚州 (古代)|揚州]]に[[秀才 (科挙)|秀才]]として挙げられた。驃騎安成王行参軍を初任とし、軍師晋安王外兵参軍・東宮学士に転じた。[[569年]]([[太建]]元年)、兄の[[陸琰]]が東宮管記となると、兄弟ともに学問をもって[[皇太子]][[後主 (陳)|陳叔宝]]の側近として仕え、当時の人々に比較された。[[570年]](太建2年)、陳叔宝が[[太学]]で[[釈奠]]をおこない、宮臣に詩を賦させた。陸瑜はその序文を作るよう命じられ、完成した文章は言葉豊かでたいへん美しいものであった。陸瑜は尚書祠部郎中に転じたが、母が死去したために辞職して喪に服した。喪が明けると、桂陽王陳伯謀の下で明威将軍功曹史をつとめ、東宮管記を兼ねた。永陽王陳伯智の下に転じて文学をつとめ、陳叔宝の下で太子洗馬や太子中舎人を歴任した。太子陳叔宝は学問を好み、陸瑜に命じて雑多な文集の鈔撰集を作らせようとしたが、陸瑜は編纂の端緒につく前に44歳で死去した。[[584年]]([[至徳 (陳)|至徳]]2年)、光禄卿の位を追贈された。遺著に文集10巻があった。


== 伝記資料 ==
== 伝記資料 ==

2020年8月25日 (火) 11:04時点における版

陸瑜(りく ゆ、541年 - 584年)は、南朝陳文人官僚は幹玉。本貫呉郡呉県

経歴

南朝梁の中軍宣城王記室参軍の陸令公(陸雲公の兄)の子として生まれた。若くして学問を積み、文章の修辞に優れていた。揚州秀才として挙げられた。驃騎安成王行参軍を初任とし、軍師晋安王外兵参軍・東宮学士に転じた。569年太建元年)、兄の陸琰が東宮管記となると、兄弟ともに学問をもって皇太子陳叔宝の側近として仕え、当時の人々に比較された。570年(太建2年)、陳叔宝が太学釈奠をおこない、宮臣に詩を賦させた。陸瑜はその序文を作るよう命じられ、完成した文章は言葉豊かでたいへん美しいものであった。陸瑜は尚書祠部郎中に転じたが、母が死去したために辞職して喪に服した。喪が明けると、桂陽王陳伯謀の下で明威将軍功曹史をつとめ、東宮管記を兼ねた。永陽王陳伯智の下に転じて文学をつとめ、陳叔宝の下で太子洗馬や太子中舎人を歴任した。太子陳叔宝は学問を好み、陸瑜に命じて雑多な文集の鈔撰集を作らせようとしたが、陸瑜は編纂の端緒につく前に44歳で死去した。584年至徳2年)、光禄卿の位を追贈された。遺著に文集10巻があった。

伝記資料