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'''劉 豹'''(りゅう ひょう、生没年不詳)は、[[中国]][[後漢]]末期から[[西晋]]時代の[[南匈奴]]の[[左賢王]]。南匈奴の[[単于]]を輩出した[[南匈奴#十九種族|屠各種]][[攣鞮氏|攣鞮部]]の出身で[[於夫羅]]の子で、[[蔡琰|蔡文姫]]と一時婚姻関係にあった。[[呼延氏]]との間に[[劉延年 (前趙)|劉延年]]、[[劉淵]]([[前趙|漢(前趙)]]の光文帝)、[[劉盛]]、[[劉欽 (前趙)|劉欽]]がいる。匈奴出身者が漢化した後に[[劉氏|劉姓]]を名乗るのは劉豹からであるが、これは[[前漢]]代の[[冒頓単于]]より匈奴と漢宗室との間に姻戚関係があることに由来する。 |
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2020年8月25日 (火) 11:02時点における版
劉 豹(りゅう ひょう、生没年不詳)は、中国後漢末期から西晋時代の南匈奴の左賢王。南匈奴の単于を輩出した屠各種攣鞮部の出身で於夫羅の子で、蔡文姫と一時婚姻関係にあった。呼延氏との間に劉延年、劉淵(漢(前趙)の光文帝)、劉盛、劉欽がいる。匈奴出身者が漢化した後に劉姓を名乗るのは劉豹からであるが、これは前漢代の冒頓単于より匈奴と漢宗室との間に姻戚関係があることに由来する。
生涯
南匈奴で反乱が起こったことで父の於夫羅が漢に留まり、196年に漢地で父が死去すると、叔父の呼廚泉(於夫羅の弟)が単于の位を継ぎ、劉豹は左賢王となる。後、曹操によって五部に分けられた匈奴の左部を統括する。
父が亡くなる前年の195年、董卓の残党の李傕と郭汜らによる叛乱に際して、蔡文姫を得て側室とする。207年に曹操により身代金が支払われ、蔡文姫が漢地に引き取られるまでの間に2子をもうけるが、その名は伝わっていない。
嫡子とされる前趙の祖・劉淵は、生年が251年頃であり、であるとすれば相当な長命である[1]。
脚注
参考資料
- 『晋書』 載記第一 劉元海